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好きっていろいろあって残酷

15歳のとき、「好きだよ」って言われたら
誰だって信じてしまう

テイラー・スウィフト「フィフティーン」


 「好き」にもいろんな形があって、いろんな形があるのに同じ2文字で表される。友だちとして、恋愛対象として、あるいは単に幸せになってほしい人という意味で。どれもこれも「好き」であることに変わりはない。
 
 相手がそれを言ってくれても、自分が期待している意味ではないかもしれない。そう考えると、なかなか罪深い2音なのかなあ、と思ったり。
 
 『神さまを待っている』を読んでいて、こんな箇所にぶち当たった。すこし前に買って、もう読むのは何回目かだけど、なんとなく手に取ってしまう。派遣で働いていた女性が失業し、ホームレスになり、性売る店で働くようになる、そういう話。
 
 これを読んで初めて知ったのは「出会い喫茶」なる商売だった。性風俗、といっていいのか、ただの水商売なのか。男性から高い入場料を取る喫茶店であり、ガラスの向こうに女性たちがいて、男性は気に入った子を指名してお話できる。そういうシステムらしい。
 
 話せる時間は限られている。彼女たちが稼ぐのはそのあとだ。男性が望めば一緒に外出する。外出先でなにをするかは、店の知ったことではない。ホテルに行くのかもしれないし、楽しく食事するだけかもしれない。彼女たちはその時間に対して対価をもらう。
 
 主人公の女性は、出会い喫茶で働くようになる。体を売ることに抵抗がある彼女は、なかなかホテルに行かない。いつも食事やお茶だけなので、次第に客が離れていく。そんな描写があった。
 
 こういう世界にいる女性たちは、引き上げてくれる男性を頼みの綱にしている。主人公も、出会い喫茶によく来てくれる「ケイスケさん」に対してこう考える。
 

 ケイスケさんが彼氏になり、一緒に暮らしてくれれば、わたしはホームレスから脱することができる。いい会社に勤めているみたいだし、広いマンションに住んでいるのだろう。女の子一人くらい、部屋に置けるんじゃないかと思う。

畑野智美『神さまを待っている』、文藝春秋、2022年、217頁。


 部屋に置くこと自体はよくても、人間は食費とか光熱費とか、かかるからなあ。だれかがそこまで面倒見てくれると考えるのは、すこし見通しが甘い気がする。それでも、うっすらそんな期待をしている相手から「好き」と言われたら、きっと誰だって思う。付き合えるかも、って。
 
 主人公の「愛」も「ケイスケさん」にそう言われて同じことを考える。そして玉砕する。
 

「わたしたちの関係は、これからどうなるのでしょうか?」わたしは、ソファーの横に立つ。
「関係って?」
「好きって言ってくれたのは、そういうことだと思っていいんですよね?」
「そういうことって?」
「お付き合いするとか」
「そんなわけないじゃん!」顔をくしゃくしゃにして、本気でおかしそうに笑い声を上げる。
「……そんなわけない?」
「なんで、オレが愛ちゃんと付き合うの?」
「でも、好きって、言ってくれたじゃないですか?」
「恋愛としての好きじゃないよ。ああいうところにいる中ではまともな感じがするし、オレの言うことをなんでも聞いてくれるから、出会い喫茶にいる女の子の中では、一番好きだよ」

同上、244頁。


 対等な人間として見ない「好き」。好意にはそういう形もある。なにかを愛玩するような。自分を犠牲する気は一切、ないような。そんな軽い気持ちは世の中にあふれていて、だからほとんど何も知らない人に向かって言えてしまう。
 
 ここに出てくる「愛」は26歳。誰かに好きだって言われたら、それなりの期待はしてしまうものなんだろう。15歳じゃなくても。
 
 それにしても、出会い喫茶って商売としてはかなり危ないなあ。店の外でなにが起こっても自己責任、って。それならスタッフのついてる風俗店のほうが、働く側は安心かもしれない。


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