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「住所がある」という身分

 「住所不定・無職」という肩書きをときどき見る。「住所がない」と「無職」はどうしてつながっているんだろうか。
 
 これは簡単な話で、履歴書にある「住所」欄を埋めないと、まず雇ってもらえないからだ。家がない人を「ホームレス」と呼ぶが、そこで問題なのはむしろ「住所レス」のほうになる。
 
 いままでどれだけ多くの場面で住所の記入を求められてきたか、すこし考えてみてほしい。
 銀行口座を開くとき、パスポートを作るとき、履歴書はもちろん、お店のメンバーズカードにだって記入欄があったりする。クレジットカードを作るときもそう。
 
 いまの社会で住所は、単に「ここに住んでます」を意味するだけじゃない。「私は身元の確かな人間です」と証明するツールになっている。
 
 だから一度、住所レスになると上のすべての行為がむずかしくなる。というか、ほとんど不可能になる。身元を証明できないからだ。市役所からの「選挙だから投票に来てね」の手紙も届かない。
 
 ホームレスについて調査していた人は言う。

彼らが本当に必要としているのは(清潔な居場所や十分な治療以上に)住所だったのだ。

ディアドラ・マスク『世界の「住所」の物語 通りに刻まれた起源・政治・人種・階層の歴史』神谷栞里訳、原書房、2020年、317頁。

 住所がないことは、近代市民社会ではとにかく嫌がられる。どこにも雇ってもらえない。多くの人は「住所不定」=「ホームレス」=不衛生で臭い、すくなくともまともな人間じゃなさそう、と思っているからだ。
 上の本の著者はそういった思い込みに反論する。それは実態に即していない。

 彼らはいつも汚くて悪臭を放っているわけではない。彼らの多くは居場所があるように見える──知り合いの家を泊まり歩いたり、ガソリンスタンドのバスルームを使ったり、コインランドリーで洗濯をしたりして、ちゃんとした身なりをしている。彼らは路上ではなく図書館や駅で日中を過ごし、ほかのホームレスから距離を置くこともある。ホームレスの子どもたちを対象にした研究によると、彼らは寄付箱からおしゃれな服だけを選び、流行遅れのコートなどは断るという。

同上、321~322頁。

 「えっそうなの?これどうせ外国の話でしょ」と思うかもしれない。そんなことはなくて、日本でも事情は同じだ。「一見そうは見えない住所不定の人」は、一見そうは見えないから人々の意識にのぼらない。路上生活者の中には、確かにずっと路上にいて不衛生な人もいるが、彼らが目立つだけだ。すべての人がそうではない。
 
 実際、都市で夜が近づくと、街のどこからか段ボールを出してきて寝る準備を始める人たちがいる。それなりに身なりがよくて、路上生活者なのは言われないと気づかない。ただ不運や困難に見舞われただけの「普通の人たち」が多いのだ。
 
 自分の知っている人は、福島の津波で家が流されて路上生活に入った人だった。財布を拾えば警察に届け出る真面目な人で、「女物のバッグもらったけど要らないからあげる」といただいたこともある。家が流されるまでは、普通の勤め人だった。こういう人は珍しくない。そして、真面目で勤勉でも、住所がないから仕事を見つけるのは難しくなる。
 
 いまではメールや電話で連絡が取れるのだから、住所にこだわらなくてもいいんじゃないか。実際、就職した人の中にも「実家の両親が離婚して家がなくなったから、友達の家に泊まって歩いてる。いまんとこ住所ない」という男性はいた。きちんと出勤して働くので、一時的に住所がないのを理由に不利な扱いは受けたりはしていなかった。
 
 コロナ禍で給付金が出たとき、政府は「ネットカフェやシェルターも住所のひとつとして認める。給付金を申請してほしい」と通知を出した。もちろん、居住実態あり・本人確認必須という条件付き。そういう場所もいずれ、れっきとした「住所」になっていくかもしれない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。