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「格差」と言われるといつも思い出す

 留学先のドイツにいた頃、驚いたのは町中にある格差だった。例えば大学生や大卒なら英語を話せるけど、そうでない人や移民はまず話せない。
 
 大学近くの大通りなら、留学生が多いこともあり、屋台の店員も商売に必要な英語は話す。「パンに玉ねぎはつける?」とか「長いソーセージ二つ折りにする?」とか。でもそれ以上のコミュニケ―ションは、ドイツ語でないと通じなかった。
 
 大学通りからすこし離れた店になると、本当にドイツ語しか通じなくなった。ドイツの人々はあまり外交的ではないと言われるのはその通りで、不親切にはしないし丁寧に接客してくれるけれど、目は合わせないタイプの人もいる。
 
 通りにはたくさん物乞いの人がいて、紙コップに入った小銭をジャラジャラと鳴らし「金をくれ」とアピールしていた。時には「よい一日を、マダム」と通行人に呼びかけながらひざまづいて低く頭を垂れ、紙コップを差し出す人もいた。
 
 日本にも格差はある。でもヨーロッパで肌で感じる「差」は、なにかもっと絶望的なものがあった。町中にそれがあふれているということ、誰もなんとも思わず普通に生活していることに、わたしは最後まで馴染めなかった。
 
 ドイツでは、日本で言えば小学校の段階で、将来大学まで行けるかどうか決まる。ふるいにかけるのが早い。

 大卒になれないのは不幸なことではなく、たとえば職人の道を選ぶケースもある。職人気質のドイツでは、手に職をつけた専門家(マイスター)を重んじる空気があるから、社会的なイメージは悪くない。
 
 人生の早い段階において取れる進路が決まるのは、いさぎよくていいとも言える。選択肢がないから迷わない。でも10歳かそこらで「お前が行ける道はAかBだ、それ以外は望むな」と言われるのが、幸福だとも思えない。
 
 大通りからはずれた店にいた、ドイツ人の若い男性を思い出す。紅茶を売る店で、テイクアウトの飲み物を頼んだら、茶葉の種類から香辛料までひとつひとつ選ばせてくれた。
 
 伏し目がちな表情ににじんでいたのは「挫折」としか言いようのないなにかだった。「他人の顔を見ただけでいい加減なこと言うな」と怒られるかもしれないけれど、とにかく日本のどこでも出会ったことのない表情をしていて、いまでもはっきり思い出せる。
 
 決して豊かじゃない自分の地元でも、ああいう顔は見たことがない。日本は表向き、だれでも進学可能で努力すればチャンスがある(ように見える)国だからかもしれない。みずから不利を悟ることはあっても、国家から突きつけられることはない。
 
 暮らしていた学生寮には当然、大学生ばかりが住んでいて、こちらはみんな晴れやかな顔をしていた。中には鬱屈した雰囲気の人もいたけど、基本的に未来を信じている、明るい表情だった。
 
 同じ町にあって、あの温度感の違い。留学中、ほかの日本人の子に「ドイツまじいいところ。なんでここから日本に移住する人がいるかさっぱりわかんない」と言われながら、ずっと違和感をひきずった。
 
 「日本で挫折の表情は見たことがない」と上で書いた。だけど振り返ってみると、あの人の表情は、沖縄で客引きをしていた若い男性の顔に似ている。観光に頼り、それ以外の産業で生き残ることが難しい沖縄。格差問題では、常に底辺争いをしている沖縄。
 
 ドイツで感じた格差は、他人事じゃなかったなと思う。すべてが自分の体感でしかないけど、若い人にああいう表情をさせることは、すべてよくない。格差のなにが悪いのかと言われたら、あの顔だけが理由で十分だ。
 
 悲しそうで諦めていて、いまだけじゃなく将来にわたってなにかを諦めている。浮かれた観光客の顔も留学してきた大学生の顔もできれば見たくないような表情。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。