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うわさの消し方

 火のない所に煙は立つ。
 
 フランスに、オルレアンという町がある。ある日大学の先生が、この町にまつわる「噂」の話を教えてくれた。女性が誘拐されるという都市伝説が、広く流布したことがあるのだ。
 
 最初は女子高生たちの、他愛ないおしゃべりだった。あるブティックの試着室に入ると、麻酔を打たれて意識をなくすらしい。試着室は秘密の地下通路につながっていて、入った女性はそのままどこかにさらわれてしまう……というもの。
 根拠は一切ない。
 
 でもこの噂話は、徐々に力を持ち始めた。まず女の子たちが家に帰って母親に話す。話を聞いたお母さんたちは、お父さんたちにそれを広める。噂はどんどん一人歩きして尾ひれがつき、やがて町中の人が知るところとなった。
 
「ここに、ヨーロッパ特有の事情が絡んできます」先生は言った。
「反ユダヤ主義。というのも、噂の標的にされたブティックのうち6軒中5軒が、ユダヤの人が経営しているお店だったんですね。それが話の拡大に拍車をかけた」
 
 噂を信じた町の人たちは自警団を作り、店の周りを囲んで、入ろうとする人を止めるようになった。ここまで来ると「何かおかしい」という声が出てきて検証が始まる。その話はどこまで事実なのか、証拠はあるのか、事実ならなぜメディアが報じないのか……。
 
「結局、根も葉もない都市伝説だと証明されて、一件落着となったんですが、これおもしろいですよね。噂はそれだけ人を動かすってことなんです、全然根拠がなくても。多くの人が信じて、自警団作って店を囲むところまで行ってしまうんですね」
 先生はそう話を終える。
 
 あとあとこの話について読んだ感想としては、先生のこのまとめ方はよくなかった。これだとまるで「事実無根だと証明されさえすれば、噂は効力を失う」ように聞こえる。でも実態はそうじゃない。

 「オルレアンの噂」として知られるこの騒動の幕引きは、もう少し複雑だった。
 
 実際のところ「誘拐事件など起こっていない」と公表されたあとも、噂は消えなかった。人々がそれを口にしなくなったのは事実が証明されたからではない。反人種差別運動をしている人たちが、それを差別的な中傷だと非難したからだ。
 
 「この噂に加担している人々は特定の民族を不当に貶めている」「これは憎むべき陰謀だ」。こんなキャンペーンが張られた。誰も差別主義者とは言われたくなかったから、そこから10日ほどで噂は沈静化し立ち消えた。
 
 この噂話自体は、それほど反ユダヤ主義に染まっていたわけではない。他の民族や属性でも十分、ありえただろう。またこの話を広めた人が、積極的に店を差別したかったようには見えない。だから「この噂は差別」という反論は少しズレている。
 
 そしてズレていたけど、結果的に噂は駆逐された。大事なのはここだ。
 
 噂話は実体がない。実体がないものには、実体がないもので対抗するほかない。噂にはそういう側面がある。事実を証明しても誰も聞いてくれない以上は、別の仕方でアプローチを試みるしかない。

 どんなアプローチなら成功するのか、それはやってみないとわからない。噂は目に見えない空気のようなもので、空気と格闘するのは誰にとっても難しい。
 
 思い出すのは、東日本大震災のあとの福島だ。この土地の食べ物や人々の生活についてあらゆる噂が飛び交い、中には根拠のない誹謗中傷もたくさんあった。あのとき何があれば、あの空気を少しは緩和できたんだろう。
 
 安全性の証明された食べ物を、それでも「汚染されている」と忌避した人が多くいたこと。福島と聞くだけで嫌な顔をする人々。オルレアンの噂は反差別キャンペーンによって駆逐された。あのときの福島に何があれば、風評被害を減らせたんだろう。


参考文献:松田美佐『うわさとは何か ネットで変容する「最も古いメディア」』中公新書、2014年。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。