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パクリから始まる。

 あらゆる創作はパクりから始まる。と言うのが乱暴なら、「創造は模倣から始まる」と美しく言い換えてもいい。天才と呼ばれる人たちは人一倍、模倣がうまい。
 たまに「このアーティストは天才で、パロディも上手」と評する人がいるけど、事態は逆なのだ。パロディが上手だから天才になる。1人を真似すればそれはパクりだけど、あらゆる偉人を真似できれば、それは創作のための最高の基礎体力になる。
 
 中学の頃、マイケル・ジャクソンにハマっている友達がいて、自分も影響を受けて一緒に聴いていた。音楽と映像を重ね合わせる「プロモーション・ビデオ(PV)」の先駆けになったマイケルのことだから「見ていた」と言っても間違いじゃない。
 当時は友達の隣で漠然と視聴していたけれど、いま思えば、マイケルには無数の元ネタがあった。創造のイブがいた。
 
 例えばマイケルは、チャップリンが好きだった。喜劇王として知られたチャップリンは、足をガニ股に開いた妙な歩き方が有名だ。でもよく見ると、一個一個の動きが、ポーズを取るように丁寧だ。撮られることをよく意識し、計算されている。
 恐らくマイケルは、チャップリンをよく見て真似し、自分の動きにも取り入れていたのだと思う。現代的なヒップホップよりも、もう少し古風で優雅な動き方。つまりは上の世代を忠実にコピーしていたであろう体の線。
 
 高校に入って、チャップリンの映画ポスターを見たとき、そのポージングに見覚えがあった。「あっ、これマイケルだ!」瞬間的にそう理解できるくらい似ている。実際には、マイケルがチャップリンに似ているのであり、逆ではないのだけど。
 ちなみに白いスーツの衣装は、タップダンスの名手、フレッド・アステアを真似ていたらしい。いろんな人をパクれば、パクリではなくなる。キング・オブ・ポップは、キング・オブ・ミメーシス(模倣)でもあった。
 
 天才が物まね上手なのではなく、模倣がうまいから天才になれる。
 
 だから漫画で「この作品のこのコマは、あの彫刻の構図と一緒!」「ここの絵はあの映画のパロディ!」なんて話を聞くと、ああやっぱり、と思う。天才がパロディをやってるんじゃなくて、パロディができるから創造的になれるんだ。
 最近読んだ『ゴールデンカムイ』にもたくさんあった。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』をまるまる援用しているコマもあれば、映画『雨に唄えば』の、街灯につかまって踊り歌うジーン・ケリーそのままの構図もあり。
 よく見てるなあ、見てる上に、読み手にわかるよう作品に取り込めるってすごいな……と見上げてしまう。
 
 元ネタにも、そのまた元ネタが存在する。ジーン・ケリーの『雨に唄えば』だって、フレッド・アステアの『イースター・パレード』をかなり参照している。創造の歴史は模倣の歴史、真似事の連鎖、パクリの宝庫。
 そういうわけで、誰かや何かを真似たりすることを、あまり恐れなくてもいいんじゃないかと思う。
 
 同世代には「他人の作品に触れてばかりいると、影響を受けちゃって、自分のオリジナリティが損なわれそうで嫌」と言う人もいる。どうかなあ、そんなこと言って何にも触れなかったら、自分の発想も貧弱になってしまうよ。
 創造性とか自分らしさって、ただ部屋に閉じこもっているだけでは生まれなくて、いろんな人に触れて、いろんな考えに触れて、こんなもの作る人がいるんだっていう驚きがあって、その上に築かれるものなんじゃないか。
 偉そうなこと言える立場にはないけれど「誰からも影響を受けずにいれば自分らしさが生まれる」っていう考えは、きっと違うよ。模倣は自分らしさの敵じゃない。天才と呼ばれる人だって、たくさんの人をパクってるんだから大丈夫だよ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。