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価値観の違い

 よく離婚の理由で挙げられるものに「性格の不一致」とか「価値観の違い」といったものがある。赤の他人が、このふたつにおいて完全に一致することなんてない。ないけれど、「許容範囲内のズレ」と「耐えられないズレ」があって、離婚に至るのは後者なんだろう。
 
 かく言う自分も、旦那さんを見ていて「自分とは別の人間だな(あたり前)」と思うことはある。倹約家の彼は、たまにこんなことを言う。
 
「損はしたらアカン。1円損するのは、寿命が1秒縮むのと同じやねんで」
 
 わたしは不思議に思う。
「散財したら早死にできるってこと?長生きしたいの?」
 
 旦那さんは、なんだその反応はという顔で「たとえ話や。お金は大事や言うてんねん」と応える。彼にとっては、お金の価値も寿命の価値も、自分より重いらしい。自分には、パーッと散財してさっと死ぬ人生も、悪くないように見えるけど。
 
 そういう刹那的な考え方をする人間は、あまり未来に希望がないらしい。これは半分当たっていて、もう半分は微妙に違う。希望とかなんとか言う以前に、そもそも「未来に自分がいる」ことにリアリティが持てないのだ。
 
 旦那さんは「(東京‐名古屋をつなぐ)リニアの開通が2027年や。……いまの状態では無理やろ。下手したら2040年くらいになるわ」と言う。そうしたらどこに家買おうかな、と想像をふくらませている。
 
 その横で「それまで生きてるかなあ」と自分が言う。彼は「生きてるやろ」と、それがあたり前のような顔をした。この感覚が普通なんだろうか。10年後も20年後も、穏当な寿命が来ない限り、自分がその未来に「いる」だろうという感覚。
 
 自分はそのリアリティが持てない。「未来がやってくる」ことを、正直考えたくない。どこかでそう思っている。だから長期的な計画性がない。将来に向けてなにかを計画するような堅実さが、常にどこかに吹っ飛んでいる。
 
 小さい頃はそうでもなかった。メディアが「老後資金の不足がどうこう」と言うので、老人になるであろう遠い将来に怯え、わずかなお小遣いを貯める子どもだった。未来は楽しみなものじゃなく、怯える対象だった。
 
 14のときに兄が自殺した。快速列車に飛ばされておしまいの人生。それを見たあたりから、人生の選択肢に「自殺」が入るようになった。自分だっていつ何時、ふらっと線路に誘われるかわからない。10年先も生きているとかなんとか、考える余地がない。
 
 「将来も、普通に自分は生きている」という感覚は、どうしたら湧いてくるものなんだろうな。いまなら考えようとした途端、嫌になってふっと感覚が閉じてしまう。
 
 老いは怖いし、自分がそもそも生きているかもわからないし、生きているとしてもそれがいいことかわからない。「10年後には死んでますよ」ともし言われたらショックだけど、それはそれで受け入れられる気がする。生きているほうが不安だ。
 
 いつだったか、旦那さんと「親の遺産をどうするか」みたいな(気の早い)話になった。彼はわたしの両親の家が欲しそうだったので、母親にそう伝えてみる。
 
「もし『そういうこと』になったら、うちの家欲しいなって言ってた」
「殺されるなよ」
 両親の相続で散々な目に遭っている母はそう言う。まあ殺されるんだったら仕方ないかなあ、と寿命に執着のない自分は思う。だとしても、痛い苦しいはごめんだ。
 
 夕食のとき、旦那さんに
「もし私を殺す必要があるときは、痛みのない感じでお願い」

 言うと、彼は一瞬、身を引いた。いきなりなんの話かと思っただろう。殺さへんよ、なんにしろ痛いのは嫌なんやね。と、とりあえずは受けとめるあたり、妻の意外な反応にも慣れてきたんだろうか。価値観の違う結婚生活は、いまのところ続いている。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。