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「子どもが邪魔」?『ぼっちな食卓』

 いま読んでいる本の、第1部1章のタイトルが「子どもが邪魔」。子どもをどこかに預けて、自分の時間を確保しようとする親の姿がノンフィクションで描かれている。最初に言っておくと、それが悪い(=子どもを邪魔者扱いなんてけしからん)という話じゃない。
 
 父の世代(現70代)でも既に、家庭の中の子どもは厄介者だった。次男だった父は「もう上に兄貴も姉貴もいて、俺は三人目だったからな。目新しさもないし、便所の前に転がされてた」と言う。
 
 東北の農村部に至っては、いづめと呼ばれるカゴに子どもを入れたまま、大人は農作業に出たりしていた。そんなことをすれば今なら児童虐待で通報されるところだけど、当時はそれがまかり通った。大人はみな働いていたのだから仕方ない。
 
 話を現代に戻すと、いまの親世代は働くためではなく「自分の自由時間がほしい」から、子どもを疎ましく感じる傾向にある。『ぼっちな食卓──限界家族と「個」の風景』には、のっけからそんな話が出てくる。
 

 スーパーマーケットで3歳未満の子どもをお菓子売り場に一人放置して、別の雑貨売り場で買い物を楽しむお母さん(29歳)もいたし、ゲームセンターに未就学児の兄弟を置いて、他の店で夫婦の洋服選びを楽しむ親や、ショッピングセンターの駐車場に止めた車の中に寝た子(幼児)を置いて買い物をしていた親たちも複数いる。

岩村暢子『ぼっちな食卓──限界家族と「個」の風景』中央公論新社、2023年、18頁。


 この本は、89家庭を10~20年にわたって調査、聞き取りしたもので、地域は首都圏となっている。その中でも調査に定期的に協力してくれるような、ある程度安定している家庭にサンプルは偏っている。
 
 たとえば、父親がアルコール中毒で母親は薬物に浸っている……といった家庭は、調査を依頼していないか、しても協力してもらえなかっただろう。よって聞き取りの対象になったのは、一般より学歴・世帯収入ともに恵まれた家庭が多い。
 
 ということを踏まえてもう一度、上の文章を読んでみる。スーパーやゲームセンター、車中に子どもを放置している親が複数いる。それなりに安定した家庭でこれか、という思いになる。
 

 「ウチは、そういうことはしない」という人も、子どもを複数のお稽古事やお教室、プレスクールなどに入れて、「私の自由な時間」を確保しようとする親は、珍しくない。すでにごく一般的なことだと言ってよいだろう。
 
 (中略)
 
 幼児教育や幼稚園の入会・入園年齢が5歳から3歳へと早期化しているのは、かつてよく言われた早期教育指向でも英才教育指向でもなく、最近の子どもが習い事好きになったからでもない。「幼い子どもから解放されて自分の時間を持ちたい」親の側のニーズが少なからず影響している。 

同上、18~19頁。


 繰り返しになるけれど、調査の対象家庭は首都圏に偏っていた。地方で同じ調査をしたら、もうすこし事情は違うのかもしれない。だからこの本の内容を「日本の」いまとして捉えるのは、ちょっと足踏みするところがある。それは地域を拡大しすぎだ。
 
 ただ「親の自由時間の確保」が、子育ての課題になっているところはあるんだろう。いままで(とりわけ首都圏で)独身生活を謳歌した人にとって、言うことを聞かない子どもの存在は手に余る。ひとりの自由な時間を満喫したあとだと、よけい辛いのは想像がつく。
 
 また社会全体でも「家の近くに保育園や幼稚園があってほしくない(うるさいから)」とか「高いお金を払ってグリーン車に乗っても、子どもの嬌声から逃れられなくてうんざり」と言った声は聞く。(グリーンてそこまで高いっけ?とは思う)
 
 確かに子どもには負の側面があって、うるさいし手がかかる。親の自由時間を圧迫しもするだろう。それが嫌で「子どもは考えない」という人も多い。というより、子どもが欲しくない理由、本音ではみんなそこなんじゃないだろうか。
 
 大人だけの気楽な時間がなくなること。自分の自由にお金や時間を使えなくなること。出産できない原因は経済的に余裕がないからとか、女性の社会進出制度が整ってないからとか、いろいろ言うけど。実際のところ「子どもは邪魔」が本音なんじゃないか。
 
 『ぼっちな食卓』、食事を追っていながら、家族というものについての描写にもなっていて、2024年の読書はここからスタート。


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