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上小阿仁の思い出

 「かみこあに」と読む。世界遺産・白神山地のふもとにある村で、もう一度書くけど「村」である。市でもなく町でもない。中学生の頃、授業の一環で訪れたことがある。最寄りの駅から電車で。片道千円ちょっとした。
 
 あのあたりにはマタギがいると言う。狩猟を生業とし、熊を神聖視する人々だ。「自然が豊か」どころか、四方八方自然だらけのところに人里があるだけなので、別に驚かない。一説によると、マタギは熊の血を飲むらしい。
 
 秋田に住む母親いわく「山から降りる前に熊の血を飲むと、降りてきた後に少しも疲れてないらしい」。伝聞の伝聞なので信憑性に欠けるが、大学の民俗学の先生が近い話を聞かせてくれたことがあった。
 

「ぼく東北でおじいちゃんおばあちゃんたちと暮らしてたんですけど、ある日おじいちゃんが変な毛皮着てる。『じいちゃん、それ何』って聞くと『これ狸の毛皮』って。
 
おばあちゃんが風邪で寝込んだりすると『おにぎりに狸の血ィかけて食べさせてやるんだ』って言うんですよ。そうすると元気が出るから。彼らからするとそれが当たり前なんです。病気の人に精のつく物食べさせるのは当然だって……。
 
そうですよね。僕らだって、家族が病気で寝込めば同じことを思う」
 

 彼らを特別視する僕らのほうが、間違っているんじゃないか。先生はそんなことを言った。
 
 現代文明において「獣の血を飲む」と言うとぎょっとする人のほうが多いだろう。でも文字通り自然の中で暮らす人たちにとっては、それが普通なのだ。これを食べると元気になる。だから食べさせる。なにも変じゃない。
 「動物の血を飲むなんて、なんて不潔な!おどろおどろしい!」と思ってしまうなら、それは文明に飼い慣らされている証拠だ。
 
 授業で訪れた上小阿仁村には、ほとんど人がいなかった。私たちは5人ほどのグループで移動していて、バス停まで歩いていた。すると後ろからするするとバスが近づいてきて、運転手さんがドアを開けてくれた。停留所でもなんでもない、道の真ん中で。
 
 私たちはありがたく乗せてもらって、ついでに乗車賃をちょっとおまけしてもらって、駅まで戻った。グループの中の一人は正規料金を払うと言って聞かなかったけれど、運転手さんは頑なに拒んだ。
 私があんたたちを乗せたんだからね、お代は私の言う通りでいいんだよ。
 
 眼鏡をかけた40代くらいの、その人がバスの中で一番若く見えた。あとはおじいちゃんおばあちゃんばかり。みんなずっと黙って、外に広がる風景を見ながら座っていた。上小阿仁の空はすごく高くて青くて、日本じゃないみたいだった。
 
 それから軽く10年以上が経って、大学の合宿で山の近くに行くことになった。上小阿仁は何も関係ない、関東のただの山だったけど、そこで後輩の女の子といろんな話をした。
 
「動物の血を飲む人って本当にいたんですね。でもいると思います。おかしいとも感じない。わたし吸血鬼ってホントにいたと思ってます。人間のほうが動物よりもいいもの食べてるんだから、血も上質なんじゃないですか。飲む人はいますよ、きっと」
 
 台詞と共に、そのとき後輩が肩にかけていた鮮やかなショールや、背景の青々しい山を思い出す。
 
 上小阿仁は高齢化が最も進んでいる村で、県内で最も人口が少ない。人を呼び込む努力もしていないし、このままひっそりと消滅していくかもしれない。マタギもまた姿を消すだろう。獣の血を飲む人もいなくなって、一個の歴史が終わるだろう。
 
 自分が見たのは「終わり」の一幕だった。その流れは止めることができない。あまり止める気にもならない。村の人たちの時が止まったような表情だけ覚えていて、それを忘れないだけでどこかで繋がっていられる気がする。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。