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あまりにも些細なモヤモヤ

 定時であがると、同じように仕事を終えた別の会社の女の子たちと横断歩道で一緒になったりする。信号を待っているあいだ見るともなしに見ていると、鞄が小さい子がときどきいる。ブランド物の紙袋に、財布も入らない小さな鞄の組み合わせ。
 
 自分はずっとリュックサックで通っている。中には資格試験の参考書とか、水筒とかお弁当とか読んでいる本が入ってやや膨らんでいる。大学時代に語学の辞書を持って歩いたときよりマシだけど、中身は詰まっている。
 
 小さい鞄って、やっぱりおしゃれなのかな。重たいリュックサックは不格好なんだろうか。ときどきモヤっとする。女の子はお弁当も水筒も持ってる気配がなくて、ぜんぶ買って済ませているんだろうか、とかつい考えてしまう。
 
 なんで私はああじゃないんだろう。どうしてこんなに違うんだろうな。小学生のときから時々感じていたものを、大人になってもやっぱり感じている。
 
 最初にはっきり違和感を持ったのは、同級生だったサヤちゃんがなにかの拍子にこう言ったときだ。
「勉強なんてがんばってもしょうがない、将来結婚してだんなさんからお金もらうの」
 どうせ夫に養ってもらえばいいものを、勉強とか学歴に躍起になって何になる?サヤちゃんはそういうスタンスの人だった。たぶんサヤちゃんだけじゃなくて、周りにいたサキちゃんもアユミちゃんもそういう人だった。
 
 自分にはそういう頭がなかった。「女の成績がよくてもかわいくない、むしろマイナスだ」とも「将来やしなってもらうんだから勉強しなくていい」とも思っていなかった。理由はいくつかあった。
 
 まず両親が離婚していた。母は婚姻時にキャリアを絶たれていたため、離婚後はパートから始めることになった。当時の地方で、ブランクのある女性が正社員の口を探すのは難しかったのだろう。
 「男性に一生養ってもらえる」と自然に信じていられるほど、私は美しい家庭環境で育つことができなかった。
 
 それから自分にそこまでの自信がなかった。自分のことを特別かわいいとも美人とも思えなかった。褒めてくれる人はいたけど、そのたびに嬉しくなるより戸惑った。「わたしは将来、この美貌で玉の輿に乗るのよ」なんて考えてる余裕がなかった。
 サヤちゃんやアユミちゃんみたいな女の子たちは、性別が同じだけでぜんぜん違う生物に見えた。
 
 あの子たちはいまどうしてるんだろう。小さな鞄を持った人を見ると、ふとそんなことを考えてしまう。自分が送れなかった人生だと思ってしまう。横断歩道で先を歩いて行く人が、細いピンヒールを履いていて、こちらはスニーカーだったりするとなおさら。
 
 悩みというには些細に過ぎる。「彼女たちがうらやましくて死にそう」みたいな話じゃない。「私もピンヒールを履いてブランドの紙袋を持ちたい」という話でもない。ただすこし悲しくなる。わたしには送れなかった人生だ、と思う。
 
 「どうせ養ってもらう身なのに、いま頑張ることになんの意味がある?」
 勉強していると、サヤちゃんの言ったことを思い出すときがある。思い出すのは思い出すというだけで、そのまま自分の事を続ける。彼女がどうなったかは知らないけど、サキちゃんは高校を中退して介護職に就いたらしい。その後は知らない。
 
 人にこういうことを話すと言われる。「『わたしには送れなかった人生』って言うけど、あなたのような人生を望んで送れない人だっているんですよ」。知ってます。自分の人生が悪いと思ってるわけじゃない。
 
 ただときどき、あの人たちが幸福そうに見える。軽くて小さい鞄は、生活感がないから余計に軽く見える。その後ろで、水筒と弁当の重みがない分あさより軽くなったリュックをかけ直す、水曜日の夕方。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。