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祖母のクローゼットと、80パーセント女の子

 冬には毎年着ていた。この赤いセーターは、祖母からのお下がりだ。最近はもうお腹がだいぶ目立つようになってきたから、マタニティウェアを着てばかりだけど、いつもならこの時期に出してくる。
 
 ロゴを見るとバーバリだ。祖母のごひいきのブランドだったらしい。いつから家にあるのか知らない。祖父母の家で暮らし始めたのが8才のとき。20代後半になったいまでも十分着られるのは、ブランドの底力ってやつか。
 
 高い服のよさを教えてくれたのはこの一着だった。発色もいいし長持ちする。手入れさえ怠らなければ、もう20年くらい軽く持つんじゃないか。となればもう、実質タダみたいなものだ。買ったときいくらだったか聞いてないけど。
 
 アパレルの高級ブランドについては、最近いい話を聞かない。むやみに値段が高く流行りを煽ってばかり、ついでに体を売る女の子たちが身に着けている……みたいなイメージを持つ人がそこそこいる。部分的にはそれもまちがってない。
 
 「このロゴがついているものは値段が高い」とみんなが知っている。となれば、それを身に着けることは「わたしには金があるの」と言っているのと同じになる。貧乏人じゃないのよ、わたしはシャネルを、エルメスを、身に着ける資格があるのと喧伝する。
 
 もしくは、それを持つことで「イケてる人」の仲間入りをするみたいな。おしゃれな子たちがみんな持っているから、わたしも欲しい!と思って買うような。それも悪いとは言わない。好きにすればいい。
 
 でもなあ。バーバリの赤いセーターを見ながら思う。ほんとうは「長く着られる(使える)いい物」っていうのが、あのへんのブランドの価値だったんじゃないか。長く一緒にいてくれるもの。何十年経っても色あせず、親から子へ伝えていけるくらいに。
 
 このあいだ妊婦検診に行ったら、お腹の中の人は女の子だろうと言われた。「だろう」であって確実じゃない。医者いわく「80%くらいの確率でそうです。絶対とは言えないからね、まだ名前とか確定しないでくださいね」。
 
 妊娠も中期になると、旦那さんも付き添いでエコーの画像を見せてもらえるようになる。赤ちゃんの様子を見ていた彼は、おじさん医師と顔を見合わせて「確かに(足のあいだに)なにも見えませんね。じゃあ」と言う。
 
 80%、女の子。それはどう受けとめたらいいんだろう。まだ確定じゃない。無事に生まれると決まったわけでもない。でも穏当にいけば生まれる。たぶん妊娠・出産するほうの性別として。
 
 ひょっとしたら彼女も、いつかこの赤いセーターを着るかもしれない。わたしが初めて袖を通したのは12のときだったから、あえりえない話じゃない。あと10年ちょっとならこの服は持つだろう。そうなったら、改めてブランドってすごいと思う。
 
 祖母は90代で亡くなった。そのときに残していったいろいろな服は──どれもそれなりにいい物だったのだけど、わたしの手元にはない。死後まもなく、親戚とか知り合いとかいろんな人が家に来て、凄まじい勢いでクローゼットをあさっていった。
 
 そういうわけで自分のところに残ったのは、もともと貰い受けていた物だけになった。バーバリの黒いバッグ、赤いセーターと黄色いセーター。ほかに宝石がいくつか。どれもいつ使うのかわからないけど、いつかは使うんだと思う。
 
 母親は女の子が生まれた時、どんな気持ちだったんだろう。赤ちゃんの好きな人だから、誕生を喜びはしただろう。でもそれは男の子であるのとどっちがよかったんだろう。考えても仕方ないことを、それでもふと考えてしまう。
 
 自分のクローゼットはといえば、これは誰もあさりには来ない。今年は出番のない赤いセーターは、ずっとそのままの形でかかっている。


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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。