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毎日がすこしずつ別の一日だということ

 ジャン=ポール・サルトルの『嘔吐』を訳しながらゆるゆる読んでいる。冒頭はこんな感じ。

 一番いいのは、毎日その日の出来事を書くことだろう。日々にあって、はっきりと見るために日記をつけること。たとえなんでもないように見えても、ニュアンスや小さな事実を埋もれさせず、とりわけそれらを分類すること。

 こうして日記のような小説が始まる。この出だしは、自分に自信がないと書けないと文章だ。生粋のエリートコースを歩んだ人間がかもし出す、環境と天才のハイブリッド。
 
 それにしてもここで書かれていることは、なんだか印象深い。日々の出来事を書き記しながら、昨日と今日のささいな違いに耳を澄ますこと。言われてみれば、よく似通って言見える毎日は、本当はすべてが違っているのだった。
 
 万物は流転する。常になにもかもが変化している。昨日の街と今日の街は違う。12時間前には流れていなかったニュースがあふれ、天気予報はもう明日の話をしている。日付がひとつ違う以上の変化がそこら中に氾濫して、それでも昨日と同じ一日だとだれもが言う。
 
 一日分歳を取った。いつも同じに見えている周りのひとたちももちろん自分も。いまだって次々に細胞が入れ替わり、ゆるやかに死んでいっている。体が動かなくなることだけが死じゃない、日常のなかで人はゆっくり老いて死んでいく。
 
 「死にたい」と思うひとは、別に急ぐことないような気がする。きっとその日がきてしまえばあっという間で、気づく暇もないよ。そんな無責任なことが言えるのは、いまわたしが思い詰めるほど苦しんではいない証だけど。
 
 だれかと一緒に苦しめないのは悪いことじゃない。余裕があるときには、余裕のあるときしか考えられないことを考えるほうがいい。だれかと共に不幸を分かち合うよりも。
 
 「将来もいまも苦しみは変わらない」と言って悩むひとは、すべてが変化していることを見落としすぎに見える。明日も同じ自分でいる保証なんてないのに、周りも自分もすべてそのまま未来にスライドできるような気でいる。
 
 実際には、周囲の人が永遠にそばにいることなんてない。ある一日をきっかけにガラッと変わるときもあれば、半年たって気づいたらだいぶ顔ぶれが変わってた……なんてことまで。
 そのあいだに自分だって変化し、成長したり老成したりするのだから、悩みだけが変わらずにある……とは考えにくい。死にたいくらい思い詰めていても、ある日すべてがどうでもよくなるかもしれない。
 
 このあいだトラブルを起こした部署の人が言っていた。
「訴えられようがどうしようが、この苦しみは長くは続かない。長くて半年、短ければ2ヶ月か3ヶ月だ。一年続くことはまずない」
 だからたいしたことじゃない、だから耐えられる。誰かに向かって電話でそう言い聞かせていた。
 
 そうは言っても、苦しいときは苦しいんだけどさ……。自分が一番なやんでいたときに「雨はいつかやむ」みたいに言ってくれる人がいたけど、それを聞くとうんざりした。「いつか」じゃなくて「今」もう耐える力がないって言ってるの。いま救われたいの。
 
 さいわい自分は死ななかったけど、「いつか」を待たずに終止符を打ってしまう人がいるのもわかる。それでもやっぱり、そんな終止符の打ち方は高慢だよ。なんでなにもかも苦しみの形まで、将来にわたってずっと一緒だって決めつけられるんだろう。
 
 辛い思いをしているときは、自分は辛くてどうしようもないのだという負の方向に絶対の自信があるからよくない。「私は最高」「私は最低」も同じくらい根拠のない戯言で、そんなことを決められるのは神しかいない。
 神じゃない自分が信じられるのは、すべてが変わっているということだけ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。