眠れる森にあなたもいて
演ずるっていうのはおもしろいわよね、と知り合いのマダムが言った。ずいぶん前の話だ。マダムはバレエを愛していて、その日は「眠れる森の美女」の話をしていた。
この物語にはいろんな語り方があって、悪役の名前も語り手によって違う。あなたが知っている「眠れる……」の悪い魔女は、どんな名前をしているだろう。自分は単に「悪い魔女」としてしか覚えてない。バレエの演目の中では「カラボス」と呼ばれる。
「このあいだカラボスを演ったのがね、それはもう本当に性格のいい人だったの。でもこれは魔女で、悪い役でしょ。演出もおどろおどろしくてね。その性格のいい人のカラボスがもう、ちゃんと悪そ~~~な感じだったから、なんだかもう私おかしくて」
演ずるっていうのは、おもしろいことよね。マダムはそう言って紅茶を飲み、クッキーをつまんでいた。
すごく性格のいいAさんが、ちゃんと悪い魔女・カラボスに見える。確かに変な感じがする。確かにおかしい。笑ってしまうという意味でも、奇妙だという意味でも。
ある実体Aが、別のものBに見える。こういうのは日常生活に転がっている現象で、たとえばいまここにいる私もそうだ。ただの肉と骨の塊のくせして、「わたし」というものを演じている。ただの肉塊が人に見える。
Aさんがカラボスと見えることと、それはなにが違うんだろうな。「自分」なんていうのは、骨と肉が人間を演じているだけに過ぎないんじゃないか。単に「そう見える」というだけの現象に過ぎなくて、どこにも実体はないんじゃないか。そんなことを考えてしまう。
ただの現象に過ぎないのに、なんで笑ったり怒ったり喜んだり悲しんだり、ずいぶん忙しい感情を持たなきゃならないのか。どこにも実体がないのに、なんで悲しみや喜びだけは、そこに居場所を持つんだろう。
考えると迷路に迷い込んでしまう。救いようのない思考から抜け出すには、ぜんぜん別のことを考えるといいらしい。余談だけど、幽霊の気配を察知したときには性的な想像をすると離れていく、らしい。確かに性的な盛り上がりと幽霊って、すこしも関係ないね。
「眠れる森の美女」は広く知られている通り、100年の眠りにつくお姫様の話。いろいろバージョンがあるとはいえ、長い眠りのモチーフは変わらない。生まれたときにたくさんの祝福を授かった女の子が、悪い魔女に呪いをかけられる。
「16になったときに、針で指を刺して死ぬように」
それを聞いていた優しい妖精は、呪いを無効にはできなかったが、長い眠りに変えることはできた。
その運命の日である16歳の誕生日に、王様も王妃様も城を留守にする。ここがまずちょっと気になる。なんで呪いが成就するかもしれないヤバい日に、親がいなくなるのか。見張りのいなくなったお姫様は魔女の予言通り、針で指を刺してしまう。
この「針」は男性の暗喩とも言われていて、つまりお姫さまは恋愛経験において傷つけられた。ここから回復するには、100年とまでは言わなくても、長い期間が必要になる。こういう場面において、親はそばについていてやることができない。本人の回復を待つ以外に、できることは何もない。
この物語をそう解釈する向きもある。傷ついて閉じ込もっている若い女性は、城の外に張り巡らされたイバラのように、あらゆる他人を拒否する。思春期のひりついている気持ちの、秀逸な比喩。
悪い魔女っていうのは、誰なんだろうな。物語のすべてがなにかしらの喩えなら、魔女は誰のどんな部分を任されて現れるんだろう。お姫様の誕生のときに、一人だけ呼ばれなかったという魔女。だれもが追放したいのに、人前に現れては悪の存在を告げていく。
この魔女の部分は、自分の中にもある。うまく言えないけど、物語の中の登場人物は、だれもが自分に似たところがある。世界を閉じてしまうお姫様も、呪いをかける魔女も、呪いを緩和しようとする妖精も。
これはもちろん自分だけじゃなくて、読む人の誰もが似ている。子どもから離れていく王様やお妃さまに。イバラに道を阻まれる王子様に。妖精に、魔女に、お姫様に。あらゆる人々についての比喩であるような、そういう物語だから語り伝えられる。
肉塊のそんな戯言。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。