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『楽に痛みなく死ねるならどうする?』

 いつでも楽に痛みなく死ねる自殺装置があったら、皆どうするんだろう。友人たちとそんな話をする。
 
「『いつでもあれで死ねる』と思えば、いろんなことにチャレンジする人が増えてくると思う。最悪、最後は安楽死装置つかえばいいんだから、保身に回る必要がなくなる」

 一人はそう言った。

 確かに、いつでも自分の意志で死ねるとなれば「老後のために資金を貯める」よりも「やりたいだけやってスッカラカンになったら逝くわ」ってスタンスの人も出てくるか。こういう生き方/逝き方もアリなのかもしれない。
 
 一方で、本当に実装されたら問題だって出てくる。高齢者に対して周囲が「介護するのも嫌だし、安楽死してくれないかな~」と秋波を送るかもしれない。祖父母世代への「早く逝け」の圧力を形成してしまいそうだから、全力で賛成って気持ちにもなれない。
 
 自分の祖父母の死をふりかえって、安楽死装置について考えてみる。あったらよかったか否か?微妙なところだ。一人は確実に使ったと思うけど、残りの三人はわからない。「一人」とは父方の祖母のことだ。
 
 病院のベッドで最期を迎えた祖母は、もう一人で立つことも歩くこともできなかった。体を拘束する点滴をとにかくはずしたがり、食事を摂るのも拒んで死んでいった。安楽死できるならきっとそっちを選んだだろう。

 プライドの高い祖母にとって、他人の手を借りて生きることは恥と同義だった。本人にとって屈辱の中で最期を過ごすのは、人間的な処置だったと言えるのだろうか。
 
 祖母の血を継いだ父は言う。

「俺は点滴でぐるぐる巻きになってまで生きたかないね。そういうことになったらお前、さっさと逝かせてくれよな」

「死の間際にはだれでも死にたくなくなるそうですよ」

「ならない。病院のベッドに縛り付けられて、生きたいもクソもあるもんか」
 
 その血をさらに継いだ自分にとって、安楽死装置はどんなものになるだろう。欲しい人のためにあるのはいいけど、自分が使うことを勧められたら嫌だ。むしろ「いつでも死ねるからこそ、生きてるあいだくらい楽しまなきゃ」と考えるかもしれない。
 
 これは友達が想定した事態に近い。「いつでも楽に死ねる」は逆説的に、生を充実させるかもしれない。明確な締め切りがある仕事のほうが、ない仕事よりもはかどるみたいに、死を意識するほど人は生に向き合うようになる。そういうこともある。
 
 体が動かなくなったとか、なにかの事情があって初めて「そろそろ逝くか」と思うときが来れば、そのときには使うのかもしれない。「とにかく生きていればいい、長生きしさえすればいい」とは思ってない。命だけを大事にして、人生を虚しく生きるのは悲しい。
 
 友達は言う。
「健康と命が守られさえすればいい、みたいなのが気に入らない。たとえばいまなら、感染しようがどうしようが私は外に出る。それで死ぬならそれでいい。感染リスクを恐れてひきこもってかえって不健康になっている人は、何がしたいのかわからない」。
 
 うーん。確かに「健康と命がすべて」なら、最適解は「ずっと安全な部屋にいる」になるけど、安全なだけで終わるようじゃ何のために生きてるのかわからない。友達が言いたいことを、私はなんとなくこう理解した。
 
 命が一番大事とは限らない。むしろ「なにのためなら健康や生命を危険にさらせるか」のほうが尊重されるべきじゃないか。自分の尊厳のために長生きを拒むのも、自由に行動するために感染リスクを引き受けるのも、どちらも尊重されるべき判断じゃないか。
 
 『楽に痛みなく死ねる装置があったら、みんなどうする?』
 
 なんでそんな話になったんだろう。会話の流れは覚えてないけど、こういう話題が出る世界に生きている。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。