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祈る話

  知人が「祈り」をテーマに論文を書いている。中に「祈ることもできない人間は、既に神に見放されている」みたいな文章があり、いろいろ考える。
 
 祈りそれ自体に、なんら物理的な効果はない。手を合わせようと十字を切ろうと西に向かって礼拝しようと、その行為自体がなにかをもたらすことはない。祈っても空は晴れないし、熱は下がらないし、部屋もきれいにならない。せいぜい周囲に「いまお祈り中です」と示すくらいか。
 
 それでも人は祈る。祈らずにいられない生きものだと思う。
 
 誕生日に「よい一年になりますように」と言うのも、受験のときに「受かりますように」と思うのも、仕事で「締め切りに間に合いますように」と念じるのも。家族が大病にかかって「どうか治してください」と願うのも。
 
 どれも確かに祈っている。でも誰に向かって?
 
 「神さま仏さま」と、その宛先を指定する人もいるが、何もないときも多い。少なくとも、誕生日カードに書かれる「素敵な一年になりますように」は、いつもそれだけで使われている。神も仏もついてない。ただ願いだけが、主語も宛先もなく放り出される。
 
 それでも祈りの言葉であることはわかる。誰かが自分のために祈ってくれることはいい。それ自体に、なんら力はないとしても。
 
 小さいころ読んだ漫画に、死後の世界に行く若い男性の話があった。男性は最初、自分が死んだことが理解できない。ただやたらと枯れ葉の多い街に放り出され、ここはどこなんだろうと考えている。
 
 やがて出会った人に「ここはどこなんですか」と訊くと、相手に「ここへ来る前のことを覚えてないのか?」と言われる。思い出してみれば、この街に来る前に自分はバイクで事故に遭った。男性は、ここは冥府なのだと悟る。
 
 会った相手は「生き返る方法がある」と言う。街にある泉に飛び込んで、底まで抜けることができれば生き返れる……かもしれない。主人公の男性は飛び込む直前、「僕のために祈ってください」と言う。このシーンをよく覚えている。
 
 祈りは何になるわけでもない。何になるわけでもないけれど、誰かが祈ってくれると思うと、それだけで心強いから。主人公がそう言う気持ちは、なんとなくわかるのだった。
 
 こういう気持ちって、結構だれにでもあるんじゃないか。誰かが自分のことを思っていてくれたら嬉しい。自分を忘れずにいてくれて、幸福を願ってくれる誰かがいると思えば、それだけで少し救われる。
 
 だから「自分にできることは何もないけど、誰かのために何かしたい」気持ちのときは、だいたい祈る。誰かに向かって「何もできないけどお祈りしてるね」と言うときもある。それでよく笑われる。
 
 笑う気持ちはわかるのだ。自分も誰かに言われたら、感謝する前に笑ってしまうだろう。調子のいいときはそうできる。ただ苦しくなったり悲しくなったりして、本気でひとりぼっちだと感じるときは話が別だ。誰かが自分を思ってくれてると信じるだけで、文字通り生きていける気がする。
 
 祈りが無意味だと思わない。なにかのときには「私のために祈ってください」と言いたくなるだろう。それだけで頑張れる気がするから。大切な人には、何もしてあげられることがないのだとしても、ただあなたの幸福を祈っていると伝えたくなるだろう。
 
 祈りはお金がかからないし、労力もそれほど必要なわけじゃない。だから理屈上は誰にでもできる。「ますますのご繁栄をお祈り申し上げます」なんて文章は、誰でも書ける。
 
 だけど本当にその人を思う祈りは、誰でもできることじゃない。私のために祈ってください、は、私を愛してくださいと言うのに似ている。誰のためにも祈れない人は、誰も愛せない人に似ている。そういう人生は貧しい。
 
 知人の論文に出てくる「祈ることもできない人は、既に神に見放されている」は、そういう意味なのかもしれない。祈ることも愛することもない人生は嫌だなとだけ思いながら、通勤電車の中で論文を読んでいた今朝。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。