干渉する権利

保障も制度もあるけれど、申請しないと受けられない。そういう申請主義がちょっと嫌いだ。生活保護や各種保障もあるにはあるけれど、自分で調べて役所まで行かないと受けられない。だから知らなければそれまで。

生活保護を受けられることを知らず、経済的苦境から親を殺した人もいる。そういう事件を聞いて「でも制度を知らないのは本人が悪いよね」とか「自己責任だからしょうがない」とか言っても、どこにも行き着かない。いまの世の中に必要なのは(と、主語の大きいことを言えば)、助けが必要な人のところにまで出かけて行って助ける、適度なお節介、適切な干渉なんだろう。

「お節介」とか「干渉」という言葉は、個人主義の世界でずいぶん嫌われているけれど、それがないと回らないことがたくさんあるんじゃないか。助けを求めようにも悲鳴を上げることのできない人がいるとしたら、踏み込んでいって助けるのが善であって、それを「過干渉」「余計なお世話」「プライバシーの侵害」とか呼ぶのは違うんじゃないか。

以前、虐待されている子どもの話を聞いた。市の職員が虐待の通報を受けて家まで行く。家からは明らかに子どもの泣き叫ぶ声と、親の怒号が聞こえる。だけど家に入っていくことはできない。無理やり押し入れば不法侵入になるからだ。それで、インターホンを押して少し話をする(その間だけ子どもは暴力を振るわれない)のが精一杯なのだと。

ドア一枚挟んで、向こうで痛々しい出来事が起きている。それがわかっているのに踏み込めない。そういうもどかしさが伝わってきて、なんでそこでお節介焼いたらいけないんだろうと思う。きっと誰でも思う。そこで干渉する権利があってもいいんじゃないか。いやあるべきなんじゃないか。小さな子どもが「助けて。家に入ってきてもいいので私を保護してください」と自分から、しかるべき機関に連絡するのは現実的じゃない。

お節介を焼く自由、干渉する権利。そういうのがどんどん失われていて、それでいいのかなあ(いや、よくない)と思うことが増えてる。誰かを助けに入った人まで「プライバシーと個人主義を犯した悪人」として扱えば、互いに不干渉な、つまり助け合わない社会が出来上がる。

もちろん「お節介」が時としてウザいのはわかる。誰かが──たとえ善意であっても──自分の生活にガンガン介入してくるのは疲弊する。宗教を押し付けてきたり、「絶対に世の中がよくなるからこの党に票を入れてね」と電話してきたり、「あなたは田舎に帰って結婚するべき」と決めつけてきたり。そうして、適切なお節介と善意による無駄な干渉の差は、限りなくわかりにくい。

とはいえ、それは互いに一切没交渉であるよりマシな気がする。怖いのは、すべての人がお互いに干渉するのを止めてしまうこと、傷つけない代わりに助けもしない世の中だ。だから少しくらいうっとうしいと感じても、それでその人との縁を切ったりしない。よほどのことがない限り。

適切な干渉、つまり「何も言われないうちから、相手の要望に適切にこたえる」能力は、すごくハイレベルなものだ。でもだからこそそれを発揮できる人は貴重だし、そんなすごい能力まで「余計なお世話」として換算されるのは、やっぱり違う。干渉する権利、適切なお節介、大事にしたい。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。