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ときどきの非日常よりも

 花火を観に行く。ちゃんと夏のイベントをこなすのはすごく久しぶりな気がする。人が多くて、歩き回って疲れたけど、それはそれとして花火は圧巻だった。最近の花火の中には、しだれ桜のように下向きに流れ、余韻を残して消えるものがあるんですね。素敵。
 
 でも一番よかったのは、寝転んで見た空だった。地元を離れて以来、川べりで寝ころぶなんてことはほとんどなかったし、広い空も見てない。住んでいる街はいつだってごちゃごちゃしていて、視界は建物にさえぎられ、前を向くと人が血を流して倒れていたりした。
 
 花火は夜からだったけれど、早めに着いたおかげでまだ空は明るい。それから徐々に暗くなり、夕暮れが夜に溶けるころになってようやく始まり。正直、苦労してまで観に行くものなのかはわからない。花火の風流さが、自分にはあまり理解できない。
 
 大きな音。明るすぎる光。たくさんの人。それに晒されるくらいなら、本当になんでもない日に同じ場所に行って、ゴロンと寝ころんで上を見ていたい。今日は雲の流れが早いなあとか、どうでもいいことを考えていたい。
 
 帰りはまた人混みにもまれ、ようやく駅まで辿り着いて帰ってきた。連れは「いやー暑かったね。次は9月に行こうか、そしたらもう少し涼しいから」と言う。
 
 イベント好きな人とわかりあうのは難しいな、と思う。いやわかりあうのを最初から諦めている。「花火大会観に行こうよ、浴衣着ておしゃれして夜店まわろうよ。人がたくさんいるのなんてあたりまえじゃん!」みたいな人に、自分の気持ちをわかってもらうのは難易度が高い。ように見える。
 
 そもそもわかりあう必要があるのだろうか、なんて考えて、結局「わたしが合わせればいいや」と思ってその場をやり過ごす。だから、ディズニーランド好きの友達がいれば一緒に行くし、インスタ映えするお店めぐりが好きな人がいれば、一緒に行く。
 
 自分の気持ちをなにも話してない。なにも話していないくせに、どこかでわかってほしいと思っている。わかってほしいと思っていながら、わかりあうことを諦めている。だめだね。どうにかしないと。
 
 わたしが欲しいのは、ときどき花火のようにぶち上がる、映える非日常じゃないんだ。毎日の生活がいつも「ちょっといい」ものであってほしいんだ。おいしい空気とかきれいな空とか、座り心地のいい椅子とか、そういうものなんだよ欲しいのは。
 
 むかし住んでいた家に、ここは祖父母の家だったのだけど、大きなロッキングチェアーがあった。ロッキングチェアー。あの前後にゆらゆらする椅子。それは祖父のお気に入りで、長いあいだ使っていたからもうガタついていて、古かった。
 
 だけど座り心地はよくて、チェアのある場所は縁側で、わたしはその場所も椅子も好きだった。日照量が少ない地元の、ゆるい日差しを受けながら、ゆらゆら。ゆらゆら。ガタついているから、ゆらゆらの度が過ぎるとガコッと音がする。そうしたら角度を調整しながら、また前後に揺れる。なんの生産性もない時間。でも好きだった。
 
 こういうもの。あのときは、ただ揺れるために揺れていたけど、ひょっとしてあれはすごい贅沢な時間だったんじゃないですかね。なんのイベント性もなく、人に見せておもしろいものでもないけど、確かに美しい瞬間だった。
 
 noteのアカウントを作って間もない頃(もう5年も前になる)、こんな記事を書いた。ごくたまに「100点満点の幸せ」を見せつけてくる人よりも、いつも6割5分くらいの幸福に恵まれている人のほうが侮れない。そんな内容だった。

  その当時といまとで、考えていることはさして変わってない。進歩してないなあと思うけど、結局のところ死ぬまでこういう人間なのだ。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。