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『頭 手 心』引用おぼえ書き。

 『頭 手 心』を読んでいる。ひっかかったところを切れ切れに引用すると、たとえばこんな感じ。

 過去三〇年間のいちばんの勝者は女性大卒者であり、いちばんの敗者は男性の熟練肉体労働者だ。(217)
 
 ごく最近まで先進国を牛耳っていたのが教育水準のそれほど高くない人々だった点は、もう一度、思い出してみるだけの価値がある。(195)
 
 そもそも高等教育が一八~二二歳という年齢層にかなりの重点をおいているのがばかげている。(中略)たしかに彼らの多くは人生で初めて長期間にわたって、親元から離れた場所で有意義な人生経験を積み、青年へと成長した。有用な職業的技能を身につけたり、純粋な愉しみとして知的関心の対象を追求したりした。ところが、あまり価値のない学問を学び、おまけに学んだ内容もすぐに忘れてしまう若者があまりにも多かった。彼らの学位は、何よりも将来の雇用主にアピールする道具として機能した。(421~422)
 
(大学に通うことで)「あまり得意ではないとか、興味がないことを苦労して続けるよりは、しかも五万ポンドを超える借金まで抱えるくらいだったら、一万五〇〇〇ポンド借りて、そのお金でコンピューター・プログラミングの六か月コースに通ったほうがいい。終了すれば、技術系企業で稼ぎも悪くない仕事が保証されたも同然だ。五年か、十年経ったら、どうしてもコンピューターサイエンスをもっと深く理解したい、あるいはとにかくビザンティウム(訳注:東ローマ帝国の首都。現・イスタンブール)について知りたいと思うかもしれない。どうしても勉強したいと思ったときに勉強するほうが、得られるものははるかに大きいはずだ」(422)

デイヴィッド・グッドハート『頭 手 心 偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来』外村次郎訳、実業之日本社、2022年。()内はページ数。


 最後の引用にはなんとも言えない。確かに父親も似たようなことを言う。
 
「社会に出たら、仕事ができるかどうかだけが大事だ。奨学金抱えてわざわざ大卒になる必要があるのかっていうと、高卒で働いたほうがいいんじゃねえかなあと思うね。そうしたら大卒の連中が社会に出るころには社会人四年目だ。そのあいだ奨学金どころか給料が出る」
 
 大学の卒業証書は仕事ができることの証にはならない。学歴偏重社会では、そういう単純なことが見落とされがちになる。早くに社会に出て、優れた技術を身に着けた人の価値は、相対的に下落してしまう。
 
 大学を出ている自分が言うのも変な話だけれど、知識や学歴への偏重はそろそろ見直されるべきだ。大学院を出たての自分より、高卒で社会人五年目の年下の先輩のほうが仕事ができるのを見れば、嫌でもそう思う。
 
 企業にアピールするのは仕事の能力であるべきで、それだったら大学よりプログラミングスクールに通ったほうがいい……という提案には一理あるだろう。ただ、実際それでどこまで稼ぎのいい仕事に就けるかは、やったことがないので知らない。
 
 ひょっとしたら近い未来、「大学へ行くよりプログラミングスクールに通いましょう!奨学金の〇分の1の値段で将来をお約束!就職までのフルサポート付き」をうたうスクールが、高校まで人集めに来るかもしれない。
 
 いまでもそういうサービスはあるけど、狙う層が社会人ではなく「進学を迷う高校生」になるのも十分、考えられる。10代ならスクールの費用も親が出してくれる可能性が高い。得意先の学校で安定してサービスが売れるとなれば、商売も安泰で……。
 
 思えばいまの大学はそれをやっている。就職サポート付き、大卒学歴による書類選考通過をお約束。でもたかだか就職のために行くなら、なるほど他にもっと廉価なサービスがある。だとしたらこの点で大学の立場は悪くなり、進学するのは本当に勉強したい人だけになっていくかもしれない。
 
 変わる未来に思いを馳せつつ読書中の令和。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。