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産んでよかった?

 いつもなにくれとなく書き綴っている小さなメモ帳に、産後まもないときの走り書きがあった。日付は定かではないけど、出産時の様子をメモしてから、すこし後に書かれている。

 (赤ちゃんを)それほど可愛いとは思えない。それほど可愛いと思えない人を、これから先ずっと育てていくんだろうか。

 その、落書きレベルの乱れた文字を見て、そういえばそんなときもあったなあ……と、ずいぶん昔のことみたいに思い出した。
 
 生まれたての頃、赤ちゃんは人間というより、初めて見る生きものみたいに見えた。小さくて、まだ目がよく見えていなくて、体も上手に動かせない。かわいい、かわいくないよりも、戸惑いが先に立った。
 
 産院にいるときはまだ、助産師さんたちの助けもあり、心に余裕もあった。けれど退院してからはそうはいかない。赤ちゃんの泣き声は大きく強く頻繁であり、旦那さんはそれに耐えきれない。時には「泣き止ませろ」と怒鳴られた。
 
 赤ちゃんと旦那さんの板挟みになると疲れる。それよりも、旦那さんがみずから赤ちゃんを泣き止ませようと小突いたり、耳元で大きな声を出したりするのが心臓に悪い。
 
 だとしても「子どもがかわいくて仕方ない」と思えれば、それを支えにできただろう。でもさしてかわいくない。どうするんだ。そういうときに書いた文章だった。
 
 もちろん自分は親だから、なにより母親というのは産んだ張本人だから、逃げるのは許されない。わかってはいるものの、「えっずっと育てていくの私、これ、どうするの」という気持ちがぬぐえない。我ながら未熟で、でもどうしようもない。
 
 さしてかわいいとも思えないものに、この先お金と時間とエネルギーをかけていく。よい親になれるという保証も自信もない。ベッドにゴロンと寝転がした赤ちゃんを見ながら、果たして本当に産んでよかったんだろうか……と思った。
 
 ひょっとしてひょっとしたら、妊娠も出産も、そもそもしないほうがよかった、のだろうか。そんな不安が、よぎらなかったといえば嘘になる。
 
 父や母にそういう相談をすると、アドバイスはいつも決まっていた。「なんでもいいから、とりあえず抱っこしておっぱいあげればいい」「生きてればOK」「まず育てる。以上」。だからとりあえずそうした。そうするより他になかった。
 
 幸い、赤ちゃんは成長が早い。暇さえあれば泣いていたのは最初の1,2ヶ月のことで、最近は胃も大きくなり、一度授乳したらしばらく寝ていることも増えた。ふくふくと肉がついてきて、「赤ちゃん」という得体のしれない生きものが「人間」に近づいてきた。
 
 最近は見ていて「この人なりに、主張や性格があるらしいな……」とようやく気づくようになった。これまでは個人というより、「赤ちゃん」という概念と格闘していたようなところがあるけど、ひとりの人間に見えてきて少し楽になる。
 
 今月で生後4ヶ月を迎えるその人は、自分が注目されていないと気になるらしい。親が見ているスマホをベシベシと手で叩き、授乳中にほかのことに気を取られると、ギャーと泣いて存在を主張する。
 
 こちらも「自我が強いのね、あなた」「話があるなら聞いてやるぞ」と、とりあえずコミュニケーションを取る意思を伝える。どこまで伝わっているかは知らない。
 
 もしもいま「この先ずっと育てていかなければならないことに関して、どう思いますか」と訊かれたら「え、わかんない。赤ちゃんかわいい」で終わる。
 
 「産んでよかった?」と訊かれたら「いいんじゃない?ゆうてもう存在してるし、どうしようもなくない?」で終わる。
 
 私も両親と同じく「とりあえず育てる。以上」のメンタルになった。たぶんこれはよい兆候なんだろう。
 
 旦那さんも、近頃は泣き声に慣れたのか「赤ちゃんが泣くのは自然なことだよ」と平気そうな顔でコーヒーをすすっている。つまりは旦那さんもわたしも、少しだけ大人になったのだ。

コクヨのミニノート。
ソフトリングだと手にあたっても書きやすいので、ここ数年ずっとこれ。

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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。