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誹謗中傷とダンバーナンバー

150人。人間が共同体を作るときの、ちょうどいい人数だそうだ。これをダンバー数(ダンバーナンバー)と言う。学校でたとえるなら、1クラス30人の教室が5クラスある感じ。確かにこれくらいの数なら、誰であれ「顔と名前くらい知っている」関係になりそうだ。

ネット上の誹謗中傷について考えるとき「中傷の数の多さ」が話題に上がることがある。些細な罵倒であったとしても、何千回となく投げかけられたら誰でも精神的にこたえるだろう。これと、人間にとっての自然なコミュニティの構成員が150人であること、繋げて考えられないだろうか。

人間の初期設定が「150人いる共同体で暮らしている感覚」になっているとしよう。その状態で100人から罵倒されたら、3分の2に罵倒されている気になってしまう。共同体の過半数に嫌われる状況は、かなり生きづらく恐ろしい。

とはいえ実際には1億人が住む国で暮らしているなら、その場合中傷の担い手は1億分の100に過ぎない。冷静に考えればそうなるのだけれど、誹謗中傷を雨あられと浴びていると、まるでコミュニティの全員に嫌われているような気になるかもしれない。その数が150を超えれば、体感的には共同体のすべての人から拒絶されているように思えて、死にたくなるかもしれない。

ときどきネット上で否定的な言葉をかけられて、ひどく過剰に反応し、傷ついている人がいる。心無い台詞を浴びせられれば不快になるのは当たり前だ。だけど一方で、赤の他人の一言になぜそんなに傷ついてしまうのか、疑問でもある。相手は地球上にいる70億人のうち、たった一人であり、たいていの場合アカの他人だ。70億分の1でしかない意見に、そこまで痛みを覚える必要があるだろうか。

「誹謗中傷で追い詰められる」のは、人間が小さな共同体を作って互いに顔を見ながら暮らしていた頃の、本能の名残なんじゃないか。その数の多さが一定数を超えてしまうと「このままではコミュニティから排除され、飢えて死ぬ」みたいな負の感情が喚起されてしまうんじゃないか。

とりわけネット空間は、距離感がバグる。リアルではすれ違った人を罵倒したりしない人も、SNSでは見ず知らずの他人に暴言を吐いたりする。言われたほうは、親しくもない人間からの強い言葉に戸惑う。これがリアルな共同体だったらどうだろう。自分に声をかけられる距離にいる他人が、自分をこころよく思っていない(どころか攻撃したいと考えている)のだとしたら、これはかなり怖い。そうして「これだけ踏み込んだ発言をしてくるということは、この人は自分に近いところにいる人だ」「その相手が自分に悪意を持っている」の恐怖で精神がやられてしまう……そんな風にも見える。本当は、今日駅ですれ違っただけの人よりも、物理的にも精神的にも遥か遠くにいる相手であっても、ネット上では距離感が歪んでしまう。

見知らぬ人からSNSでひどい言葉をかけられている人には「その人、70億分の1だよ。150人のうち1人じゃない」と伝えたい。日ごろ関係ない人に、それもただSNSで一瞬接しただけの人に、嫌われたって何も困ることない。もちろん嫌なことを言われたら傷つくけれど、それ以上のダメージを喰らう理由はどこにもない。街に出ればいつも通りの風景が広がっていて、すれ違う人々は誰もそんな風に攻撃してこない。ちょっと人口が多い地域なら、たいていの人があなたに無関心だ。コミュニティを追放されたりしない。普通に昨日と同じように生活する世界がある。

オンラインで完結するのは便利だけど、人間の自然な感情や距離感がおかしくなってしまう欠点がある。コミュニケーションはどうしても、リアルな世界をお手本とするのだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。