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【詩を紹介するマガジン】第19回、Jacques Prévert(ジャック・プレヴェール)

 どういう詩なのか、映像で見るとこんな感じ。

 映像では女性が主人公になっているが、男性バージョンの訳も見たことがある。ここでは書き手が女性ということで話を進めるけれど、どちらで考えてもらっても詩の価値が損なわれることはない。

朝の食事

彼はコーヒーを注いだ
カップに
彼は牛乳を注いだ
コーヒーのカップに
彼は砂糖を入れた
カフェオレに
小さなスプーンで
彼はかき回した
彼はカフェオレを飲んだ
そしてカップを休ませた
私になんの言葉もなく
彼は火を点けた
煙草に
彼は輪をつくった
煙草の煙で
彼は灰を落とした
灰皿に
私になにも言わず
私を見ることもなく
彼は立ち上がった
彼はかぶった
頭に帽子を
彼は着た
レインコートを
だって雨だったから
そして出て行った
雨の中
なんの言葉もなく
私を見もしないで
それからわたし
顔を手にうずめて
泣いた。

 ジャック・プレヴェールは、映画『天井桟敷の人々』のシナリオを書いたことで知られる。映画は10代のころに一度見て「わからん」「でもわかるような気がする」「これがフランスか」と思った。

 上で挙げた詩にはちょっとした思い出があって、別に美しい思い出じゃなくて、初学者だったときに翻訳に戸惑った記憶がある。そのときフランス語の先生と立ち話になったのを覚えている。

 男の先生で、日本語の発音もどことなくフランス語に侵食されている人だった。眼鏡がよく似合う知的な雰囲気で、考えてみれば大学以来、あの手の人には会わない気がする。大学に多く生息するタイプなのかもしれない。

 詩の中に「Ma tête dans ma main」という部分があって、直訳すると「わたしの手の中にわたしの頭」になる。
 手の中に頭……?情景がうまく思い浮かばない。

 翻訳をいくつか参照すると、訳が2パターンに分かれていた。

 ひとつは、上でそうしたように「手に顔をうずめて」というもの。tête は「頭」という意味で最初に習うけれど、顔でもあり頭部でもある。ついでに指導者という意味にもなる。日本語でも、トップのことを「お頭(かしら)」と言うあれに似ている。

 もうひとつは「頭を抱えて」という訳だった。直訳だと「手の中に頭(がある)」になるわけだから、これでもおかしくない。詩ではこのあとに「泣いた」とあるから、「頭を抱えて泣いた」になる。

 日本語だとずいぶん印象が違ってくるけど、果たしてどっちなんだろう。

 という疑問を持ったまま、解決しようともしないで大学構内を歩いていたとき、フランス語の先生が向こうから歩いてきた。ちょうどエレベーターのボタンを押して、文学部棟のフランス語フロアに向かうところらしい。

「先生」
 とっさに声をかけて、頭の中にあったことを質問してみる。
「Ma tête dans ma main (マ  テットゥ ドン マ マン)ってどうやって訳すんですか」

 先生は(ん?)というように一歩下がってこっちを見た。こうやっていきなり本題を切り出すの、おそらく自分のよくない癖なのだけど、相手がたいていの場合応じてくれるので治ったためしがない。

「訳が2種類あって『手に顔をうずめる』と『頭を抱える』って見たんですけど、どっちが正解っぽいですか」

 先生はひるまない。さっきの自分の拙いフランス語も頭に入っているらしく、さらさらと答える。

「どちらでもおかしくはないですけどね……。手に顔を、でもあるし、頭と訳してもおかしくはないです。ただこのとき、手が単数形なのには注意が必要ですね。もし両手で頭を抱えて『ウーッ』となっているなら『ドン メ マン』と複数形になる必要がある」

 文脈と、自分がどういう情景を描きたいかによります。先生は解説しているあいだに来たエレベーターをやり過ごし、自分が「ありがとうございます」と引くと、いえいえと言いながらまたボタンを押した。

 あのときのことを思い出すと「エレベーター待たせて悪いことしたな」と「すっごい唐突に話しかけても、先生って答えてくれるんだな……」という2つの感慨が湧いてくる。

 フランスで作られた映像を見る限り「手に顔をうずめて」が、多くの人の想像する状況に近かったんじゃないか。

 あれ以来、翻訳作品を見ると時々「この訳の背景には、いきなり捕まえられたフランス語教師がいるのかもしれない」と思う。あのとき話しかけられた先生が、どことなく嬉しそうだったのを思い出している。

朗読はこちら。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。