わたしの狭さと世界の広さと
良くも悪くも世界は広い。「いろんな人がいる」とどんなに頭では理解していても、いざ出会ってみるとびっくりする、なんてことざらにある。
ある男性は「俺は『お前はゲイか』って言われたらすごく不快になる」と言う。「屈辱だと感じるね。だから言われたくない」。
屈辱、かあ……。自分は「あなたレズ?」と言われても「違うよ、なんで?」以上に言うことがない。この人の持つ不愉快は、自分には理解できないものなんだろう。
彼は続けて「ゲイの人が『お前ストレートか』って言われるのも、きっと同じくらい不快なんだと思うよ。人にこういう話をするときは慎重にならないといけない」。
己の欲せざるところ人に施すことなかれ。
なるほどこの言葉は正しい。
でも同時に自分みたいな人間にはあまり意味がない。「私はやられても構わない」ことなら、他人にしてもいいのだろうか?
「自分がされて嫌なことを人にしない」の欠点はこのへんにある。あくまでジャッジするのは「自分」であって、判断基準の中に相手が入っていない。本当の倫理や道徳っていうのは、もっと相手を中心に考えるものじゃないだろうか。
つまり極めてシンプルに──「相手が嫌がっていることはしない」。たとえ自分がそれをされてなんとも思わないのだとしても。
政治的立場の違いで驚かされることもある。自分が初めて「親韓右翼」なる言葉を聞いたのはいつだったか。なんとなく「右翼」といえば韓国が嫌いなのだと思っていたころだった。
「わたしの立場からすると」
その人は言った。
「日本と韓国はかつてひとつの国であり、共に米帝と闘った同志なんです」。
わたしの認識とだいぶ違う。生まれたときから韓国は別の国であり外国であり海の向こうであって、かつてひとつだったなんて発想がなかった。そりゃあ学校で習うから、植民地だったことは知ってるけど……。
この人以外に「わたしは親中右翼よ」とわざわざ教えてくれる人もいて、あっそういう立場もあるんだと驚いた。それから少し大人になって「反米左翼」とか「親米反中」とかいろんなスタンスが入り乱れているのを知って、やっぱり世界って複雑だと思った。
それからこれは自分の心の狭かった話。
すこし前にフードドライブ(食べ切れない食品を寄付する取り組み)に食品を持って行った。おばさんから送られてきたバンホーテンココアや、複数買ったはいいものの味が合わないレトルトカレーなどを置いてくる。
貧困家庭に寄付されるとのことで、感謝の言葉はあまり期待してなかった。支援される側の人たちは、支援を当然視することがある。いくら物資を送っても「チッ、金よこせよ、金」と言う人もいる。
寄付した食品がこういう人のところに行ってもおかしくない。そんなのは承知で行ってる。支援物資が届いたそばから「これを使い切ったらあとはどうしよう」って考えが巡り始めて感謝どころじゃない、そんな人だっているだろう。
でも、改めて寄付を呼びかけるホームページを見てみたら「ありがとう」の声がたくさん届いていた。「子どもにお菓子をあげられるのが嬉しいです」とか「いつか支援する側に回りたいです」とか。中には英語で書かれたものや、日本語が流暢でないものもあった。
他人に「ありがとう」って言える人の存在。日本語の読み書きがおぼつかない人の存在。画面に表示されたメッセージから、自分の視界に入っていなかった人々が現れてくる。思わず画面から目を逸らしてうつむいた。
世界が広いと知ることは、自分の狭さを知らされることで。「いろんな人がいる」の「いろんな」の内には、自分がまだ知らないことがたくさんあって。
フードドライブ、今度は「サキホコレ」を持って行きます。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。