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2冊の本、時代の流れ

 同じ著者による、2冊の本を読み比べている。どちらも首都圏の家族の食卓を、収集された多数の写真とともに考察していく本。淡々と事実を綴っている……ように見えるけれど、事実の並べ方には、その人の思想が現れる。
 
 1冊は2010年に出版されていて、もう1冊は2023年。出版には13年の開きがある。1冊目には、たくさんの食卓の写真が並んでいた。家庭の食事を調べるという調査に協力してくれた家庭が、毎回の食事を撮ったもの。調査量を裏付ける、大量の証拠写真だ。
 
 2冊目には一切、写真がなかった。どうしたんだろう、と思う。詳細はわからない。「写真に惑わされず、その背景への考察を見てほしい」という思いから、敢えて著者が載せなかった可能性もある。
 
 あるいは、と思う。調査対象の家庭からクレームが来たとか。「うちのダイニングテーブルを勝手に晒さないでください」みたいな。そうでなくても、著者が本の中で、まるでその食事を「悪いお手本」のように描いたことに気を悪くした家庭もあったかもしれない。
 
 本の中には「この家の主婦は酒を飲んで寝坊し、お腹が空いた子どもが起こしに来た。5歳の長女の朝食はミカンとサンドイッチ、スポーツ飲料」みたいな文章と共に写真が載る。少女の前にあるのは、ラップに乗せられたジャムサンド(皿はない)、ミカン、液体の入ったグラスだった。(※)
 
 正直、見た人は「粗末な食卓」だと感じるだろう。粗末だと思わなくても、ちょっとさびしい感じはするだろう。そして、このお母さんが「娘を大事にしている」と感じる人はきっと少ない。「食事を与えないよりマシ」くらいのことは考えたとしても。
 
 これ、調査の結果とはいえ、該当家庭は外に見せたくないんじゃないか。こういうエピソードと写真が所狭しと並ぶので、このへんが波風立て、クレームを招いた可能性はある。だから2冊目は、エピソードだけで写真がないのかも。そう思いながら読む。
 
 ここ10年で、出版を巡る状況がどれだけ変わったのか、この業界の専門家ではないから知らない。だけど世間の風潮として「もっと配慮せよ」とか「あれはハラスメント、これもハラスメント」と断罪する空気は強くなっている。
 
 出版業界にもその波は押し寄せていて、もはや食卓の写真を載せて、その家庭をどうこう言うことも難しくなった……。そうだとしてもおかしくない。実際、著者の考えを書くトーンは2冊目ではかなり抑えられている。
 
 最初の本『家族の勝手でしょ!』では「あとがきにかえて」でこんなことが書かれている。
 

(ある主婦が)以前子供たちから「ママはなぜちゃんとした朝ごはんをつくらないんだ」と抗議を受けたことがあると言う。そこで、ご飯・味噌汁・おかずを作り、子供たちを早くから起こして正座させ「(お前たちが言ったのだから)完食しろ」と迫ったそうだ。

()内は引用者による注。

 私は苦いものを呑み込んだような気がして、しばらくこの家のことが頭を離れなかった。家庭とは、家族とは、親とは、いったい何であろうかと思ったのである。さまざまな事情を考えて百歩譲っても、10歳以下の子供に対し要求されなければ朝食を出さないのは親と言えるだろうか。言われてようやく作っても(中略)正座で完食しろとお仕置きのようなことを子供に迫るだろうか。

岩村暢子『家族の勝手でしょ!写真274枚で見る食卓の喜劇』新潮社、2010年、188~189頁。


 13年後の『ぼっちな食卓』でも、同じエピソードは出てくる。が、ここまでは書かれていない。「親たるものどうあるべきか」を考えるような、著者のモヤつきがここまで出た文章もほぼない。ただ事実を並べるのに徹し、クレームを避けている、ようにも見える。
 
 これは完全に想像だけど、件の主婦の話に対し「それの何が悪い?」と言う人もいたんじゃないか。「子どもが朝ごはん作れって言うから作ったんでしょ。普段やりたくない人に無理やり作らせたのだから、正座で完食のお仕置きくらいあたり前」のような。
 
 いいか悪いかは別として「そういう人いるだろうな」と自分に思わせるくらいには、その手の意見はときどき聞く。著者のところにも「これの何が悪いんですか。あなたは何様のつもりなの?」的なご意見が行ったかもしれない。
 
 もっとも、2冊目でも「著者は著者なりに強固な思想があるんだな……」という書かれ方はしていた。最後まで読むと「一緒に食卓に就き、食事マナーにも厳しい家庭は常に円満、子どもたちは非行に走らず夫婦仲は良好」、それが理想ですと言いたげだ。
 
 当然のことながら、一緒に食事をするから家族が円満なわけではない。もともと仲のいい家族だから食卓に集まれるし、食卓に集まれるから仲が良くなる、正のループに入れた家庭ってことだ。
 
 他の──著者いわく円満ではない──家庭は、個人の好みやペースを尊重しすぎた結果、家族がバラバラになっている。例えば食事の時間が同ではなく、食べるものは個々人で調達する家庭ほど、会話がなくなり空中分解していく……そしてそれは大変よろしくない。そういう風に読める。
 
 どうだろうな……。「個人の好みやペースを尊重する」にも、きっといいところはある。厳しい躾が行きすぎれば害になるのと同じで、個人の尊重もやり過ぎは害になる。そこはバランスの問題であって、個人主義のすべてが悪いとは自分には思えない。
 
 仲の悪い家族が食卓に集まるとどうなるか、そんなことは身を持って体験している。同じテーブルに就いたくらいで家庭は円満にはならない。それくらいなら、各人が好きなときに好きなものを食べながら、互いに緩やかに繋がっているほうがいい。
 
 これから読みたい本に『しょぼ婚のすすめ』があるのだけど、これは結婚と家庭について書かれている。中に「夫婦はわかり合えなくてもいい、けなし合わなければいいのです」というフレーズがあると聞き、読んでみたくなった。
 
 わかり合えなくてもいい、けなし合わなければ。それくらいのスタンス、悪くないと思う。 


(※)参照:岩村暢子『家族の勝手でしょ!写真274枚で見る食卓の喜劇』新潮社、2010年、135頁。



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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。