「便利が実現した世の中で、人間は幸せを感じるか?」
弱いロボットの話。前にもどこかでこの単語を聞いて、面白いなあと思ってそのままになっていたのだけど、今日はじめて動画でその姿を見た。
https://youtu.be/g6XUHhsOrmA
これはゴミ箱のロボットで、腕がないから1人で(1体で?)ゴミを拾うことができない。人間に「ここにゴミがあるの。拾って捨ててほしいの」とアピールするように動く、そういうロボット。
「ロボット」と言えば、なんでもやってくれるスーパーマシンを思い浮かべがちだ。裏を返せば、人の力を一切必要としない、自立した強さを求められてきた。でも「弱いロボット」は違う。文字通り弱い。
人の手を借りないと存在できない。弱さとはそういう意味だ。ところでこれって人間の本質なんじゃないだろうか。開発者はそんなことを言う。
現代社会では「自立している=人の手を借りない」ことが良しとされていて、他人にもそれを求める。なにか不幸が起きて、誰かが痛みを訴えていても「備えておかなかったあなたが悪い」「怠け者を助ける義理はない」と見捨てる風潮がある。
でも人間は本来、ささえあって生きてきたんじゃなかったか。だれも1人だけでは生きられないから、互いに──たとえ村八分を発動したとしても、火事と葬式のときくらいは──協力して生きてきたんじゃなかったか。
そう考えると「自立した個人」なんていうのは、幻想に過ぎないのかもしれない。誰もが誰かの手を借りながら生きている。
「俺がバリバリ働いて女房を食わせてやってるんだ」と言う人も、奥さんの家事労働に支えられて生きていたりする。会社に行くのに鉄道員の力を借り、あるいはリモートワークでPCを使うのに無数のエンジニアの手を借りて。
記事の中にある「便利が実現した世の中で、人間は幸せを感じるか?」は大事な問いかけで、普通に否だと思う。「便利」が「人と切り離されても1人で生きていける」を意味する限り、便利は孤立や孤独と同義語になってしまう。
孤立と孤独の世界で、人は幸せを感じられるか?
「弱いロボット」は今日もうひとつ動画で見た。ティッシュを配るロボット、見てもらうとわかるけれど、完全にマッチ売りの少女。健気でかわいい。これは助けたくなってしまう。
https://youtu.be/QtU4GsQna-g
こうしてみると「かわいい」には「いじらしい、健気」が含まれているんだなあと思う。これは弱いロボットじゃなく、かわいいロボットなんじゃないか。そしてかわいいとは助けたくなるということなのだ……。
これからは、助けてくれるのではなく助けたくなるロボットの時代。なんだか新しい風を感じる。
人は、人と切り離されては生きていけない。これをロボットから教わるのも奇妙な感じがするけど、健気にカクカク動く姿からはそんなメッセージが受け取れる。人がスーパーマシンを目指す一方で、ロボットが人間の弱さに近づいていく。
変な時代だなあ。人類史上、変じゃない時代を探すほうがむずかしいのかもしれないけど、それにしても。
変じゃない点があるとしたら、弱さを強みに変えていく、って点だろうか。歴史上、生物はどうにか弱さを補おうと進化して、それが理由で発展してきた。あらゆる進化はエラーから始まる。
いまはただ「弱い」と片付けられていることも、進化の一部分なのだと考えると、ちょっと見え方が変わってくる。ひょっとしたら、自分の欠点だって捨てたもんじゃないかもしれない、誰かとつながる理由になるかもしれないんだ、なんて。
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