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イマジナリーフレンドとぬいぐるみ~すあだから見る身体論~(試論)

※本テキストは、2020年に書いたものを加筆修正したものです。素人が手探りで書いたものですのでお見苦しい部分や知識不足な部分がありますがご了承ください。

 
 2007年からニコニコ動画でぬいぐるみや人形を使って動画配信を行っているお洒落クリエイターの「すあだ」という人物がいる。現在はYouTubeを拠点として活動している謎に包まれた覆面配信者だ。彼の数ある動画の中には、手に握っているぬいぐるみを映し出し、視聴者のコメントととぬいぐるみたちががおしゃべりをしているものがある。彼が顔を出すことも、地声を出すことも決してない。あたかも人形が生きているかのように演じ、ぬいぐるみを通して視聴者のコメントとやりとりをするのだ。説明でも何を言っているのかわからないと思うのでおすすめの動画をいくつか貼っておく。

 すあだ(敬称略)との出会いはコロナ禍真っ最中の時だった。部屋から一歩も出れず、不安と恐怖が襲う中でYouTubeのおすすめに出てきた『ぴんくのぶたちゃんねる』の視聴してみた。おじさんが一人遊びを極めていると思うと戦慄したが、彼の心の中にいるイマジナリーフレンドをぬいぐるみで可視化して意思を伝えているように見えた。その動画はとても魅力的で心の奥底に眠っていた幼い自分が目覚め、喜んでいた。また、一人で遊ぶ技術を見習って、この鬱々としたコロナ禍を楽しみたいと思った。このことをきっかけにすあだと哲学者の言葉を借りながらイマジナリーフレンドとぬいぐるみと人間の関係性について考えてみた。
 
 すあだにとってイマジナリーフレンドとは、「自身の魂や心を分け与えた存在」らしい。彼が幼い頃から一緒に居るイマジナリーフレンドの「わんたん」は、自身に肯定的な存在で、ジブリ作品の『ハウルの動く城』に登場するキャラクターで例えるとするならば「カルシファー」に似ているらしい。カルシファーは、地上に落ちれば命が尽きてしまい、また、主人公のハウルが死ぬと同時に消滅してしまう。そしてハウルもカルシファーと長期的に契約を結んでいると心を失い化け物になってしまうという存在だそうだ。そのようなことから、すあだにとってわんたんは自分の外部にある心臓であると捉えている。(動画『すあだの宗教~イマジナリーフレンドとその位置~』より)そのため、わんたんに心を支配されることで、すあだは強大な力を手に入れ、人間の形を保った化け物のとしてお洒落クリエイターとして活躍し、死に至る。そしてすあだの死と同時にわんたんもこの世界から居なくなってしまうことを示唆しているのかなと感じた。自閉した自分の世界から開かれた世界へみんなに発信していく姿は私のような貧弱野郎にも勇気を与えてくれてとてもドラマティックで素敵だなと感じた。カルシファーのようにメラメラ燃えている心の炎が眩しい…。

 そしてもう片方のイマジナリーフレンドである「ぶたたん」は、外部からやってきて、何を考えているのか予想がつかないらしい。一番不思議な存在で、自分の意思とは違う考えが出てくるのだという。いつも反対意見を積極的に述べてくることもあり、すあだを止めるストッパー的な存在なのだろう。第三者の役割を果たすぶたたんは、滑舌がとても悪く、何を言っているのか正直わからない。たまに「てぃのっかなー(死のうかなー)」と呟くことがあるため、すあだのコンプレックスや潜在意識を表している闇の存在でもあるのかなと感じる。 
 この両方のイマジナリーフレンドは、ぬいぐるみの状態でなくとも自身の視界の中に常にいるという。位置も指定されており、わんたんは視界の左下の心臓のあたりに常に存在し、すあだの方を常に見ている。反対に、ぶたたんは視界の右上前方におり「客観的な位置」にいる。また、前述したぬいぐるみはすあだにとって、他のどのぬいぐるみよりも特別な存在である。「この世界がどう見えているのだろう、何を考えているのだろう」と、自分の意思を向けるのではなくイマジナリーフレンドの意思について考えている。「むしろ人間で生活している時の方が人に合わせて演技をしている感覚があり、キャラクターをすごく作っている違和感を感じる」とも述べている。(『ユリイカ 特集:ぬいぐるみの世界 2021年1月号』/いぬわんたん+ぴんくのぶた/「にんぎょう世界のぬいチューバー」/青土社/2021年より)

ユリイカ 特集:ぬいぐるみの世界 2021年1月号

 このようにイマジナリーフレンドと三位一体となった人物こそが「すあだ」であり、複数の人格によって形成される。つまり、すあだの中にある全ての人格をひっくるめて「すあだ」となり、それが本当の「すあだ」であるのだ。2つのイマジナリーフレンドから出発し、新たなイマジナリーフレンドを誕生させ、状況に合わせながらすあだを構成する要素を自分で組み替え、進化する細胞でもあると感じた。現在もバーチャルおばあちゃんや五月雨空也、キャスバル兄さんなど多くの人格を使いながらVtuberとしても活躍している。

 ちなみに脱線するが、すあだを見て『分人主義』を思い出した。ーーー”「分人」とは、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と言います(”平野啓一郎/『私とは何か-「個人」から「分人」へ-』/2012年)この本もも非常に面白いので興味のある人はぜひ読んでみてください。


平野啓一郎/『私とは何か-「個人」から「分人」へ-』

 以上のように、すあだについて調べてみるとイマジナリーフレンドをぬいぐるみを通して可視化してイマジナリーフレンドあるいは自分の意思を伝えていることが分かる。この時、ぬいぐるみは意思を反映させるための受容体、すなわちオブジェやメディウムとしての役割を感じる。しかし、先述した通りすあだにとって「イマジナリーフレンドはカルシファーのような存在」であったり、ぬいぐるみに対して「何を考えているのだろう」と所有者自身が考えることは、ぬいぐるみが人間の身体の一部として取り込まれているように感じた。指先にぬいぐるみを持った瞬間、それがすあだの身体の一部として取り込まれるのだ。ジョルジョ・アガンベンが「主体は動作を支配するのではなく、みずから動作の起こる場所なのである」(國分功一郎/熊谷晋一郎『<責任>の生成-中動態と当事者研究』353頁/2020年より)という言葉のように、イマジナリーフレンドを通して別人格を持つ複数の自分と会話することで意図していなかったものが見つかり、新しい意思、心の奥底にある無意識が見えてくるのだ。人間とぬいぐるみ、あるいはイマジナリーフレンドと一体となり、行為の中で自分の身体の延長として考えることで目、耳、口という人間の機能から触覚、知覚を養うことが出来ると感じる。したがって、イマジナリーフレンドはブルトンのいう人間の「無意識」と「イメージ」が結びついてできた、人間の思想が与えられてこそ機能する受容体であり、人間にはない死生観のない世界からやって来た新たな生命体と言えるのではないだろうか。

参考資料:
『ユリイカ 特集:ぬいぐるみの世界 2021年1月号』/いぬわんたん+ぴんくのぶた/「にんぎょう世界のぬいチューバー」/青土社/2021年
https://dic.pixiv.net/a/すあだ作品#h2_4『すあだ作品/ピクシブ百科辞典』
https://www.youtube.com/watch?v=Ssim30F1AGw『すあだの宗教~イマジナリーフレンドとその位置~』2017.08.22掲載 2020年閲覧
國分功一郎・熊谷晋一郎/『<責任>の生成-中動態と当事者研究』/新躍社/2020年
アンドレ・ブルトン/『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』/巌谷國士/岩波書店/1992年
アンドレ・ブルトン/『シュルレアリスムと絵画』/巖谷國士他訳/人文書院/1997年


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