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アンチテーゼ~ネオアンチインフルエンサーなんかいらない

「最近面白いことがない」とか「何を観ても同じだって感じちゃう」とか、或いは「何か面白い映画とかドラマとかある?」とか「刺激的な音楽体験って最近ないんだよねぇ」とか。

 お前らうるせー!

 何か美味しいもの食べに行こうよ的な誘いをしておきながら、「なんかふつー」ってただ飯に文句を言う女子か!

 というのが今回のお題です。

 まず面白いことっていうのは面白いやつがやることで、それを面白がれるインテリジェンスは常にアップデートが必要なんだよね。ずっと面白がれるっていうのは、切れ味が落ちない魔法の包丁でもない限り実現不可能。
 包丁は研がないと食材の繊維をきれいに切ることはできず、うまいお寿司が家庭で作れないのは、この職人の包丁という研ぎ澄まされた道具と食材にどう包丁を入れたらより美味しく食べられるのかを経験で知っている板前さんの技術が必要なのよ。

 小さい頃はおなら! とか うんち! とか下品であったり大人が恥ずかしがるような言葉を並べるだけで笑うことができる。
 これはお湯を注いだりレンジで温めるだけで頂ける即席の味、面白さ。

 まず、この感覚のままでずっといられる人は至極幸せで、世の中のどんなことも面白く感じるはず。しかし、だいたいこれは卒業する。悪くするといわゆる中二病をこじらせて世の中を斜に構えてみるようになるのだけれども。

 このこじらせラインはフェチズムや収集癖といった別の楽しみ方に転嫁されていくから、こういう人たちはだいたい「最近面白いものがない」なんて言わず、むしろ自分のアンテナの感度が鈍くなったとか、どっぷり浸かる時間が取れないなど、自己管理の甘さに悶絶するのだが、それすらも楽しめる人は、何も心配いらない。

 さて、このようないわゆるオタクラインに入らなかった人たちは年齢に即した面白さを発見していく。ローティーンの頃はジュブナイル的なカルチャーに触れ、大冒険活劇みたいな映画や胸キュンの恋愛ドラマにはまったり、あるいはアイドルや推しメンスターに心躍らせる。それが音楽だろうと銀幕のスターだろうとスポーツ選手であろうと「好きな~は?」と質問されたら即答できるような何かを見つけることができているはず。

 もちろんそうでない層も少なくない割合で存在するけれども、好きな~はなくても部活に打ち込んだり、読書にはまったりと何かやることを見つけていると思う。それすらない人たちのなかで一番厄介なのが、周りが盛り上がっているからそこに乗っかることで欲求を満たす人たち。

 これがなかなか侮れないアンチになる可能性を秘めている。なぜそうなるかは後述。とにかく楽しんでいる人たちの輪に入ることが楽しいという層が、実は先に述べた「最近面白いことがない」とか「刺激がない」とか言い出し、しかもある程度の発言力を持っていたりする。

 このある程度の発言力というのは、当人が何か成し遂げたわけではないのにすごくできる人オーラが出てしまっていて、そこそこできる人たちは自分から楽しいことを作ったり見つけたりすることよりも、そこに乗っかる能力にたけている場合があり、しかも自分自身すら「それが最高!」と騙すことが出来る。

 そしてやや流行りに陰りが見えてくると「最近なんかつまらなくなってない?」などと言い出し、そうだそうだと同じような流れの人たちが一気にアンチに転換する。

 僕はそういう声に対して「うるせーよ!」って気持ちで、「あーそーだねー」と棒読みなコメントでスルーをしがち。なぜスルーで済ませるかというと、そういうトレンディな人たちにはそっちの方面で頑張って欲しいからであって、決して面倒とかうざいとか思っているわけではないのだけれども、ネット以前の文化だとそれは単にメディアが取り上げなくなるというだけだったのでアンチの声なんてさほど聞こえてくるものではなかなかった。

 このアンチのうちアンチテーゼを持っている主張はたぶん正義だと思う。価値観の多様性を保つために必要な装置のようなもの。これはよいアンチとここではしておくとして、問題はテーゼのないアンチズムだ。

 自分を満足させてくれなくなったムーブメントに対して子供が「お母さん、つまんないよー」と駄々をこねるようなアンチを「ネオ・アンチ」と定義すると、このネオアンチがSNSで猛威を振るった結果、今の世の中はとても息苦しくなっているのだと筆者は分析する。

 この現象をネオアンチインフルエンサー症候群と名付ける

 この人たちは持ち上げては下げるを繰り返す。昔でいう褒め殺しにあたるのだけれども、そのアップデート版で常に上昇気流にのっている風船を狙ってここぞというタイミングでそれを狙い撃ちする。そのことで世間が盛り上がる=賛否両論状態に持ち込みアンチ側の応援団になるか、或いは応援団長として旗を振る。賛否の状態というのが肝で、論争にならないようなネタには食いつかない。論争にこそ応援団の存在価値があるからだ。

 筆者から言わせれば他人のふんどを借りて土俵にあがる不届きもの

 彼らは常に数的優位を保つことに意識をするが、形勢不利となるや否や、即ち as soon asで無関心を装い姿を消す。いや、そもそも関心なんてなかった。ただ「つまんなーい」と言いたいだけ、聞いてほしいだけなのだ。

 これは批判的精神とはまるで違う子供のわがままのレベルなのだけれども、先にも述べたように見た目は大人なだけにネオアンチは厄介なのだ。

 好きを語るより嫌いを語るほうが容易でしかも同意を得やすい

 僕は常にテーゼをもってアンチを語ることを心がけてここにアンチテーゼを綴っている。それは好きなものがあるからこそ、好きなことを見つけることが楽しいからこそ身に着けた「いいものもあれば、わるいものもある」という極意であって、どちらも必要。偏った摂取は人を歪ませる。

 だから認めよう。ネオアンチなる存在を。認めて批評する。そのために分析する。当たり前に好奇心などというものは恋愛力と同じで人の能力なのだ。物事にあまり関心を持てないことは悪いことではない。それを認めたうえで否定しよう。

 アンチインフルエンサーなんていらない。なぜなら世の中を狭く、つまらなくするからだ。公の場では嫌いを語るより、好きを語る。クローズドな空間ではどんどん悪口を言っていい。それでバランスが取れる。もちろん一方で批評は公の場で大いにするべきだ。アンチテーゼを提示し堂々と「クソくらえ!」というべきなのだ。それを笑えないのであれば、その場を離れればいい。常にユーモアのセンスを扇子の裏に書き留めておいて批評を言えるのが大人の嗜みなのだと筆者は思う。

 悪口は人の関心を引きやすい。それはつまり おならだうんちだとそれを喜んでいる幼少期のそれと変わらないくらい安易で幼稚なのだと筆者は批評し、否定する。

 子供は無邪気だけど、大人がそれをすれば邪気――よこしまなのだ

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