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【心の解体新書】6.人はなぜ怖がるのか~フランケンシュタインの怪物と小豆洗い

【心の解体新書】は筆者が一年後(2025年夏)までに『人はなぜ幽霊を怖がるのか、人はなぜモノマネを笑うのか』というお題に対して答えていくための思考メモです。そのために
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素
といったテーマを今後掘り下げていきます(改変、追加削除あり)

「恐怖」や「恐怖心」で検索してみると対人恐怖症や様々なトラウマとそれにどう対処するかというサイトがたくさん見られます。この記事の目的は「人はなぜ幽霊を怖がるのか」を解き明かすことにあるので、それらについては言及はしませんが、人が何かを怖がるメカニズムを解き明かす必要はあるでしょう。
「あなたにとって怖いものは何ですか?」という質問に即答できる人は、案外怖いものは少ないように僕は思っています。回答まで間があったり、あれこれあげながら「これかなぁ」と答える人の中にこそ、筆者のように怖がりな人が居る確率が高い。

 得体のしれない物音が怖い。暗闇に何か潜んでいるかもしれないと思うと怖い。物陰に何か潜んでいるかと思うと怖い。これらは人間が本能としてもっている恐怖心=生き残るために必要な「警戒心」ということになります。そして人は高度な知能によってそれらを分析し、危険と判断すれば逃げたり、隠れたりするし、未知なるものに対しては「好奇心」が勝るか自分の能力に自信があれば未知なるものが何であるのか確認をするでしょう。
 ここではこれを反射的恐怖心に分類し、動物的恐怖心とします。つまり生命の危険を感じたときの反射です。
 高所恐怖症や閉所恐怖症というのはその二次的な存在で、分類は反射的恐怖心であり、環境に対する恐怖心を心理的恐怖心とします。高いところから落ちた経験、閉じ込められた経験、水に溺れた経験などが引き金になる場合が多いですが、これらは経験や訓練、治療で改善可能な恐怖心とします。

 他に緊張をともなうシチュエーション、人とのかかわりに対する苦手意識が引き起こす対人恐怖症やイップスのようにスポーツ選手に観られる特定の状況下での運動神経の伝達不良などもありますが、これらは経験からくる心理的である場合と神経疾患によるものがあるようです。
 何が怖いと問われて大勢の前で話すのが苦手とかスポーツや楽器の演奏、演技など本番で緊張してしまい失敗することを挙げる人も少なくないでしょう。恐怖と緊張は相互に原因たりうる関係にあり、極度に緊張することも恐怖であり、それによって失敗したという過去がさらに経験的恐怖となることがあります。
 それはトラウマ=心的外傷と呼ばれ、心的外傷後ストレス障害(PTSD)として現代では広く認知されていますが、世界的にはベトナム戦争の帰還兵のPTSD、日本においては1995年の阪神・淡路島大震災がきっかけではなかったでしょうか。
 トラウマに関する研究は19世紀半ばで起きたイギリスの鉄道事故をきっかけに行われた研究が最初とされ、有名どころではフロイトがトラウマとヒステリーの関係性についての研究があります。恐怖心と心理学はそう考えると古くからされていたように思えますが、社会的認知という意味ではごく最近のことだと言えるでしょう。

 さて、これらは筆者の得意分野ではない(興味関心は大いにあるが)ので、妖怪の話をしましょう。
「あなたは何が怖いですか」という問いに「お化け」と答える人は少なくありません。「お化け」とは超常現象の通称であり、そこには幽霊も妖怪もジェイソンもフレディも含まれます。「ホラー映画は怖くて見れない」という人もいれば「ホラー映画は怖いから好き」という人もいる。
 世界で最初のSFホラー小説は女流作家メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」原題は『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(Frankenstein: or The Modern Prometheus)と言われています。「フンガー」とは言いませんが、あの首にボルトを付けてのそのそと歩く大男が登場する物語です。
 この作品の恐怖はどこにあるのかと言えば、その怪物の恐ろしさではなく、その怪物を作ってしまったフランケンシュタインの人間の狂気です。生命に対する探究心がやがてとんでもない怪物を生み出してしまう恐怖。それは神への冒涜であり、道徳心と倫理観の喪失がいかに行われていくのかが、実に見事に描かれた作品ですが、それを読んだからと言って恐怖という体験をするというよりは、恐れであり畏れであり、哀れであるという感情と論理的に突きつけられる命題、生命とは何か、死とはなにかということを考えさせられる未来に対する恐怖であったのかと筆者は感じました。
 ところが多くの人はそこから別の恐怖を見出します。この作品が映画化されると、そこに描かれた怪物はとてつもない怪力で人を襲います。モンスター「フランケンシュタイン」の誕生です。

wikiより1931年映画版のフランケンシュタインの怪物(演:ボリス・カーロフ)

 もしもメアリーシェリーが生きていたら、キューブリックの映画シャイニングに対して原作者のスティーブン・キングが文句を言ったどころの騒ぎではなかったよう思います。
 しかし人々が望んだ恐怖は人ならざる人型の怪物が暴れる姿でした。のちのドラキュラもしかり、狼男もしかり。世界は怪物を恐れることに狂喜し、様々なモンスターが生み出されました。それは妖怪が逸話、寓話であったものを水木しげる先生が漫画で描いたことで妖怪という愛らしくもあり、怖くもある存在に変わったことと似ています。
 そして日本におけるその原点は江戸時代の漫画、浮世絵にすでに表れていますし、幽霊や鬼、百鬼夜行が描かれるのはさらに昔の話です。この妖怪的存在は日本に限らず、妖精や妖魔、幼獣や聖獣など様々なアイコンとして存在し、同じように逸話・寓話だったものがモンスターとして親しまれ、恐れられ、エンターテイメント化されています。

 妖怪とはすなわち怪異。怪異とはヒトの理解の及ばない現象、すなわち超常現象の具現化であり、目には見えないが音がするもの、気配のするもの、姿は見えるが突然消えてしまったり、また現れたり、ときに病をもたらし、時に福音をもたらし、ときに不幸をばらまく。そんな存在の総称が日本においては妖怪とされたいます。
『小豆洗い』という怪異は、夜中に水辺で小豆を洗うような異音が聞こえることから生まれた妖怪です。

wikiより小豆洗い


 その伝承は様々で、ただ音がするもの、声をかけてくるもの、そして人を食らうものと様々です。様々ですがそのような得体のしれない音が聞こえる場所には似たような妖怪が存在します。
 人は得体のしれない恐怖を妖怪の仕業にすることで未知なるものに対する恐怖心を「あれは小豆洗いの仕業じゃ、近寄らなければ大丈夫」とすることで納得をし、恐怖を克服してきたのだと思います。
 かのメアリー・シェリーも科学や医学が進歩していくなかで起こるかもしれない人間の暴挙を描き、警鐘を鳴らしたつもりが怪物が文字通り独り歩きをしてしまったということになるでしょうか。
 恐怖を克服するための創作が、新たな恐怖を生む。人は恐怖からはにげられないのかもしれませんね。

 今は恐怖はエンターテイメント化され、ビジネスとして日々消費されています。貞子が登場する「リング」は呪いを扱いつつも、本当に怖いのは人ではないかという物語のはずが、人気ホラー作品呪怨の伽椰子とコラボして貞子vs伽椰子というある意味妖怪異種格闘技みたいな作品を生み出すまでに至っています。そこはハリウッドもジェイソンとフレディを共演させていますし、水木しげる先生の妖怪デザインを活かした「妖怪大戦争」は筆者の大好きな作品です。もちろん三大怪人 ドラキュラ VS.フランケンシュタイン VS.狼男もチェックしてます。あれはもうトラウマです。filmarks.の評価1.5は伊達じゃないです。

 人は環境を作れる社会的生き物です。生命の危険のあるものはことごとく環境を変えて危険を遠ざけてきたのが人類の歴史といっても過言ではありません。かつての得体の知れない現象は科学の進歩とともに様々な解明がなされ、妖怪の出る幕はすでに失われています。それに代わって都市伝説なるものが生まれ、口裂け女や呪いのビデオなるものが人々を恐怖させますが、それはやはり創作物でしかありません。お化け屋敷やジェットコースターと同じです。かならず安全が保障された恐怖です。
 しかし人間には何かを怖いと感じることを必要としています。脳が欲しがっています。でなければホラーがビジネスにならないし、ジェットコースターに人は乗りません。恐怖は「戦う、逃げる、固まるかの反応」を引き起こし、アドレナリンを放出させます。アドレナリンは腎臓の上にある副腎というところの中の髄質から分泌されるホルモンで、自律神経の交感神経が興奮することによって分泌が高まり、これにより頭が覚醒したり、生きているという感覚が得られたりすることが快感とかわります。

 恐怖は快感、これがホラーや絶叫マシーンが存在する理由となると、それをビジネスにしている人間こそ、どうかしていると思うかもしれませんが、アドレナリンを放出するのが機能である限り、それを使わなければ誤作動を起こすこともあるでしょう。健康を維持するためにお金や時間を費やして怖がらなければいけないとは、現代人とはなんと不便なのかと、そういう考え方もあるかもしれません。

 そしてだからこそ、幽霊という存在は人間の恐怖の最後の砦ではないのでしょうか。その先にあるのは死です。死は克服できないことを人は知っています。だからこそ幽霊を怖がる、死を超えた存在を怖がるのはとても論理的であり、同時に知能を持った、すなわち死を論理的に理解している人間的な恐怖の象徴といえるかもしれません。このあたりは、また後日、幽霊の正体を探りながら検証したいと思います。

 最後に、お化け屋敷というアトラクションは近年、様々なバージョンアップがされていますが、皆さんはお好きでしょうか。筆者は好んで入ることはありません。だって、もしそこに本当のお化けがいたとして、見分けがつくでしょうか。本当のお化けなんていないと思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。確証はありますか。よく思い出してください。あるべきものがなかったり、ないはずのものがあったとして、それを認識できるほど、あなたの視野は広かったでしょうか。そこにはいるはずなのです。人を怖がらせて喜ぶ人という怪物が。
 無事にお化け屋敷から出られた人は気づかない、恐怖を食い物にする化物に出会ってしまったら、二度とお化け屋敷からでることはできません。それらの魂はその場に縛られ、何かの形に変わって存在しています。もっとよく足元を見てください。もっとよく天井を見てください。何かの気配を感じませんか。人の悲鳴に交じって聞こえる笑い声やすすり泣く音、背後の視線。気を付けてください。振り向いたら終わりです。その声にこたえたら終わりです。もし帰宅して眠ったとき、そのお化け屋敷の夢を見たのなら二度とそこにはいかないほうがいいでしょう。
 ”彼ら”はあなたを狙っています。薄暗い暗闇から、姿なき音を立てながらあなたの家の前を徘徊しているかもしれません。

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