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インドアなライフのテーゼ

 確かに行きたいライブやイベントは中止や延期になり、好きなスポーツも見れない。外でできる食事の時間も場所も限られてしまう。

 不自由な事には変わりはないのだが、ふと考える。

 自分が生まれ育ったこの50年の時間の中で、今ほど自由な状態はなく、それが非常事態宣言によって窮屈になったからと言って、それがもとでストレスフルになることなど全然ないのである。

 近所にコンビニエンスストアができたのが自分が中学生の頃だったと思う。朝7時から11時まで。乾電池やカセットテープをコンビニで買うと割高なので、普段は安い電気屋やカメラ屋に買いに行くのだが、うっかり切らしてしまったときにコンビニを使う。

 ポケット瓶のトリスを買ってドカジャン(土方作業員の着る作業着を着るのが当時流行った)のポケットにしのばせ、公園の電話ボックスで彼女と電話をするなんていうことをここで語ってもしかたがないが、兎に角、24時間店が開くようになったのは昭和から平成の過渡期であり、それまではテレビは24時か25時で終わるものだったし、深夜の友はラジオと雑誌と音楽だった。

 もちろんその頃にだって夜の文化はあり、クラブといわれる前のディスコやキャバクラと呼ばれる前のキャバレーやらダンスホールといった社交場はあったのだけれども、あいにく、そういう場所に出入りする年齢ではその頃なかったのだけれども(もちろん例外的に若い頃からそういう場所に出入りしている者もいた)。

 僕はどちらかといえばインドア志向であったが、もちろんキャンプやバーベキューは嫌いじゃないし、中学生のときは登山部なるものに所属していたので、山歩きも海でテントを張って過ごす事も楽しんだものだが、それはむしろ非日常であり、日常はインドアライフだった。

 プラモデルを始めたのは、おそらくテレビマンガ(今のアニメ)や特撮ヒーローもののプラモデルを駄菓子屋兼模型店で買ったのが最初だと思うし、ロボダッチなる子供向けのプラモデル(このブームは今で言えばポケモンはオーバーでも、そのくらい周りの子供は買っていた)があり、そこからミリタリーミニチュアに手を出すまでたいしてかからなかった。

 実寸の1/35の大きさの第二次大戦中に活躍した戦車や装甲車、そしてアメリカ兵やドイツ兵(イギリス兵も少し)の模型にカーキやライトグレイの塗装を施し、目に色を塗る技術を身につけるとジオラマといわれる戦場の情景を模型で再現することが楽しくなり、今度はそれをカメラで撮影し、ジオラマ写真なるものを始めるわけだが……。

 僕の趣味というのは、なんというか徹底していないので、それを極めようとかそういう欲はあまりなく、なんとなくそれっぽくできたら満足してしまう帰来がある。

 もしそればかりやっていれば、それなりに一生楽しめる趣味になっていたかもしれないのだけれども、飽き性とは言わないまでも、浮気性なのは確かで、ガンダムのプラモデルが発売されるやそれに飛びつき(当時はまだブームになっていなかった)、どうやったら関節をもっと自由に曲げられるだろうかとか、そんな模型の改造に興味を移しつつ、同時に音楽に目覚め、高いオーディオを吟味して秋葉原を巡ったり、映画の3本立てを見に行ったり、FM雑誌の読者投稿欄に寄稿したりと、まぁ、あれこれ同時にやったものです。

 高校から大学にかけて、前からやりたかったバンドをはじめ、最初はドラムとボーカルをやり、どれここれも見よう見まねでベースやギター、キーボードも触るようになりました。

 好きな曲をカバーし、それでは飽き足らず……というか本来やりたかった作曲と自宅録音=宅録、今で言うDTMを始めたのは大学も卒業間近の頃だったかな。当時はシンセサイザーの黎明期とも言うべきか。YAMAHAのDX7から小室哲也監修――だったかな。EOSなんていうのも結構売れたものです。

 当時の録音方法って主流はカセットテープを4トラックで録音する方法でMIDIっていう通信規格でシンセサイザーやリズムマシーン、シーケーサーなんかを同期させて……なんて話はチンプンカンプンかもしれませんが、世の中はカセットテープからCD、そして次にMDって流れになるわけですが、ベルリンの壁崩壊やら昭和が終わり平成になるっていう時代に、音楽の録音技術は大学生でもがんばれば結構上等な環境をそろえられたわけですよ。

 あっ、そうそう。昭和が終わったその瞬間、僕は高校時代の仲間と蒲田あたりでマージャンをしていたんですね。マージャンもまた僕のインドアライフを語る上では欠かせないかな。
 マージャンを始めたのは中学生の頃、それから仲間とよくやったものですし、大学生のときには雀荘でメンバーのアルバイトをした時期もありました。
 雀荘のメンバーというのはフリー打ちのお客さんの相手をするのが大きな仕事の一つです。フリー打ちとは、ひとりでお店に来てマージャンをするうち方。その反対がセット打ちと言って、仲間4人(またはそれ以上)で遊ぶうち方ってことになります。

 マージャンについてもう少し語れば、当時は第二次ってことになるのかな。マージャンはちょっとしてブームというか、竹書房から発行されている近代麻雀という雑誌が結構人気を博していて、能條純一の『哭きの竜』や片山まさゆきの『ぎゅわんぶらあ自己中心派』『スーパーヅガン』は、ファミコンやスーパーファミコンでゲーム化されるほどでした。

 あっ、そうそう、ゲームね。これ、いまやインドアに欠かせない存在をすっかり忘れていました。大学受験を終えてからだったかな。ファミコンのドラクエを買ってプレイしたのは。

 僕はマリオのようなアクションゲームは苦手だったので、ドラクエやファイナルファンタジーのようなRPG系のゲームが好きでしたね。たどり着いたのは女神転生シリーズですが、最新作ペルソナ5もプレイしましたよ。

 社会人になり、紆余曲折転職をしてゲームの開発会社の経理を担当するようになり、ガッツりコンピューターと向き合う生活が始まったタイミングがwindows95が出た頃でしたね。

 僕はどちらかというとネットの世界にはそれほどはまりきりませんでしたが、それでもアメブロ(その前にネクソン社のSNSやMIXI)に好きなアーチストの記事を書いたり、平成仮面ライダーの記事を書いたり、そういうことはしていましたが、オンラインでゲームをやることはほとんどありませんでしたね。

 2010年に人工衛星ハヤブサが帰還する折に、ユーストリームなるライブ配信サービスの存在を知って、僕があこがれていたラジオのDJみたいなことが、映像つきで自宅でできちゃうんだってことにすっかりはまった結果、ライブ配信で演奏をしているインディーズアーチストに出会い、僕の今日のSNSライフが始まり、FBでつながっている人と、出張で地方に行った際に会うのが楽しくて仕方ありませんでした。

 震災を経て、その絆やつながりはさらに深くなった。

 そしてその時期の転職とブログを書くよりも物語を書くほうにシフトしていき、今日こうしてnoteで皆さんと出会うわけなんですけどね。

 いやはや。我ながらこうして振り返ってみると、まぁ、充実したインドアライフだこと――1ヶ月や2ケ月、外に出れないくらい丸で平気なわけです。

 本来は。

 しかし、僕はある程度バランス感覚というか、インに対してある程度アウトも欲しがる人なので、キャンプやバーベキュー、野球やサッカーにバスケ、お酒をたしなみ、ひとりで飲みに行ってそこで知り合った人たちと朝まで飲んでしまうこともたびたび。

 音楽だって人前で演奏するのはある種、アウトドアなわけで。こうしてつらつらと書いているのは、やっぱりインドアがどれほど充実していようが、僕としては、外に出たいのであります。

 みなさん、いかがお過ごしですか?

 皆さんにも忘れていたインドアな趣味があると思います。僕も久しぶりにプラモデルを作ろうかとか、オンラインで麻雀でもやろうかとか、いろいろ考えています。

 こんなときだからこそ、普段やっていないようなことを、新しいことをやるもよし、昔の趣味を復活させるのもよし。

 まずは、今を大切にしましょう。

 時間は誰にでも平等にあるのですから。それをどう使うのか、ネットやテレビのニュースから流れる、暗いニュースを時にはシャットアウトして、好きなことに没頭してみるのもいいかもしれませんね。

 たとえばラジオを聴いて、曲をリクエストしてみるのも面白いかも。

 雨が降っているときには、おとなしく家の中で遊びなさいと叱られた頃を思い出しながら、この長い雨をやり過ごそうじゃありませんか。

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