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リアルな現実とブルーインパルス

 ブルーインパルスが空を舞った。その光景は純粋に美しく、格好のいいものだった。

 その飛行は医療従事者への感謝の意を表すものであった。僕が目の前でブルーインパルスを見れたのは、近所に大きな病院があるためだった。近所と言っても歩いていくには距離があるものの、もし何か大きな病気をした場合、救急などでは最初に頭に上がる病院の一つである。

 その是非について、たとえばそんなことに予算を使うのなら別のことにするべきだという声も聞く。僕としてはそのような考え方は論理的であるとは思うが、マキャベリズムで人が幸せになれるのかといえば、違うように思う。

 もちろんここにはバランスがあって、やることなすこと予算の使い道に疑義が生じるような失策と並べてしまえば、これもその一つになるだろうし、『アベノマスク』と呼ばれているマスクの製造、配布に関する政府のやりようには僕自身も『ほかにやりようがあったのでは』という思いや『市場のマスクの高騰を抑制した効果』という官邸の会見には釈然としないものを感じる。

 物事にはいろんな側面があり、なおかつ観測者の立つ場所も高いところも低いところもあれば、狭いところも広いところもあるわけだし、観測者が移動している場合は上り坂と下り坂でも違うだろうし、速度によっても違うだろう。

 新型コロナウイルスについて、医療従事者に感謝の気持ちを持っている人は多いだろうし、概ねそこには賛否はないように思える。しかし現実というのはそれほど簡単ではない。

 6月1日に僕は知り合いが経営している居酒屋に足を運んだ。非常事態宣言のあと5月一杯まで休業し、ようやく営業を再開するということで、僕は一つ返事で『行くよ』とメッセージを送った。

 彼女はとても感謝をしてくれて、僕はどうにもそんなつもりはなかったのだけれども、喜んでくれているのなら、それはそれでありがたく感謝の意を受け取り、足取り軽く店を訪ねた。

 さて、そこで起きたことをありのままに話すことの是非を考えたときに、やはりまだ時期尚早だということで、切り取った話に留めておくことを前置きした上で、『現実』というものに関して、僕が感じたことを書いてみる。

 その店は駅前からタクシーで1000円くらいの距離である。そこは繁華街ではなく、住宅地の中で近所の人が家路につく前にちょこっと寄っていっぱい引っ掛けるような飲食店が数店舗並んでいるが、決して交通の便のいいところでも、人通りの多いところでもない。

 一見さんよりは、ご近所さん、常連さんの集会所のようなその店が新規開店するのを手伝ったというか、応援をしていたのだけれども、最近はすっかり足が遠のいていたのも事実である。

 一つにはやはり、遠いということがあり、一つには僕自身がそのコミュニティとは縁という意味において距離も取っていたことがある。これは敬遠ということではなく、ちょうどよい距離を保ちたいという僕なりの世渡り術のようなものだと理解して頂ければと思う。

 でもだからこそ、このような厳しい時期には気がかりになり、どうしているかと連絡もとるわけなのだけれども、そんなわけで僕は、常連でもなければ、コミュニティの一員でもないという立場であるが故に、気にせず誰とでも話すことができるという自由をいつも携えている。

 その日はお客さんとしては僕以外に3人の方がみえていた。話はやはりコロナであるとか、最近はどこもタバコが吸えなくなったとか、つけっぱなしのテレビの音が小さくても耳に入るくらい、会話は静かなものだった。

 みんな僕よりもお年を召した方ばかりで、言ってしまえばコロナなんてぜんぜん気にしていられないという立場の方も中にはいらっしゃる。病院なんか嫌いだ。特にどこどこ病院は嫌いだと、ろくでもないところだと名指しでけなし始める。

 よくよく聞いてみるとその方の連れの方がその病院で亡くなられたそうだ。なるほど、そういうことかと思うしかなかった。それがコロナであれ、ガンであれ、病院に送り出した人が元気で戻ってくるのか、或いは違う形で戻ってくるのかで、そこには感謝とまったく逆の感情を持つことは十分に理解ができる。

 或いは病に倒れ、入院生活を送っていたが、どうにか退院できたという人は、やはり有難かった、世話になったとそういう言葉が出てくる。これがすなわち、世の中の、人の世のリアルな現実なのだと僕は思いながら話を聞いていた。

 もちろん口に出したことすべてはその人の本意であるとは限らない。感謝しているからと言って不満がないわけでもないし、怒っているからと言って、すべてを憎んでいるわけでもない。
 だからこそ、僕は僕の体験したことを話し、僕がそれで何を思ったのかを話す。相手の話を受け入れつつも、それをすべて認めるわけでもなく、違う考え方、感じ方もあると示すだけでいい。相手を否定することもなければ、何か提案するわけでもない。
 そういうコミュニケーションのとり方が絶対的に正しいとは思わないし、時には意見をぶつける必要もあれば、否定をする必要もあるだろう。でもあいまいで、正解のないような状態をバランスよく保つことも、決して無駄なことではないのだと思う。

 それが僕にとってのリアルな現実なのだ。

 顔を突き合わせて、怒ったり笑ったりしながらただただ、言葉を交わすだけでいいことも、世の中にはたくさんある。これがSNSになるとどうやら話が変わってきてしまう。

『それだけ病院を悪く言うのだから病気にかかったら医者にはいくのはおかしい』などと書き込む人もいれば、その病院の過去の問題をどこかから探してきて、『でもここの病院は問題あるよ』などと書き込む人もいる。

 それは果たして、リアルな現実なのであろうか?

 人が生きている現実というのはきれいごとだけではすまない。貧しい国では病院にかかりたくても、高度な治療をなかなか受けられないところもある。しかしその国の産業は多国籍企業などが進出した工場やプラントでかろうじて経済が成り立ち、そうして得た利益の恩恵は、別の豊かな国の医療をより高度なものに押し上げていた入りする。

 誰にも迷惑を掛けずに生きていられればそれに越したことはないと言ってはみたものの、多かれ少なかれ、人が生きていく上では、きれいごとではすまされない歴史や現実と無縁ではいられない。

 人間臭さというのは、愛する妻を失った悲しみがそのまま病院をうらむような言葉に出つつも、その表情の中には言葉だけでは言い尽くせない深みのようなもの――それは声に、顔のしわに、その言葉の後のため息や、どこか遠くを見るような視線に現れる。

 助けられた命であっても、入院生活の苦しみや寂しさは口に出さずとも、その人の瞳の奥には隠れているものである。

 そのリアルな現実を無視して、何かを論じることにどれだけの意味があるのだろうか。どれだけの価値があるのだろうか。彼らの目には轟音とともに優雅に飛ぶジェット戦闘機の姿はどう映ったのだろうか。

 お店に来てくれたことをうれしいといってくれた彼女の目には、空席の目立つ店内の光景は、どう映ったのだろうか。

 いつもより、少しだけ多く、酒が進んだ。

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