【心の解体新書】9.心は鍛えられるのか~息子の心の成長と挫折
ここまで心のメカニズムを解体し、理解を深めるために笑う、怖がるといった「心の表れ」とそのメカニズムについて書いてきました。今回は心が機能なのであれば、鍛えることは可能であるかということについて検証していきます。まず、心が生命を維持し社会性を保つための機能を有しているということは、機能である以上、鍛えることも衰えることもあるのではないか。だとすればどうやれば鍛えられ、どのように衰えるのかを考えていきます。
心を鍛える=メンタルトレーニングという言葉がすぐに頭に浮かぶと思います。またスポーツや武道に限らず、心を鍛えることについては芸事、人前でのふるまい、試験などの精神状態の維持など、さまざまな「思い当たること」があるかと思います。
日常会話や文章でも「あいつ、メンタル強いなぁ」や「腰抜け」「弱虫」「兵(つわもの)」「豪胆」「剛毅」「肝の据わった」などといった言葉を見聞きします。それは持って生まれた素養である場合もありますが、トレーニング、修行、しつけや週間などで身に着けるものという認識もあると思います。
人前で話すのが苦手な人に対して、どうしたら普段通りに話すことができるようになるのかという趣旨のHowToものの著書は数多く出版されていますし、自己啓発本や偉人伝を読むことで考え方や心構えについて学んだことがある人、参考にしたことがある人は多いのではないでしょうか。
人前で話すことが苦手な人の場合、最初から苦手という場合とある失敗がトラウマとなってその体験がフラッシュバックし、パニックに陥るという場合とがあります。後者は前にも紹介した心的外傷であり、それを直すためには鍛えるではなく治す、治療が必要です。前者の場合、話すことの前に人前というシチュエーションに対して自分の力を信じることができない=自己肯定感の不足から自信がない、緊張し委縮してしまうということが考えられます。それは訓練によって改善でき、すなわち鍛えることによって対処可能になる能力のアップグレードとなります。
ここではこの能力のアップグレードにあたる鍛えることについて考えていきます。
人の能力の一つ、機能のひとつとしての心は筋肉や体力、柔軟性やスピード、正確性といった測定可能な数値としてあらわすことは容易ではありません。ただそれについては様々なアプローチがされています。一つには人の心を「性格」としてグラフ化する方法。外向性、協調性、勤勉性(誠実性)、情動性(神経症傾向)、開放性の5つの要素でグラフ化し、パーソナリティ分析をしてその人の行動の傾向を算定し、個人の強み、弱みを洗い出し、不足しているパラメーターをいかに補うかという近年ではポピュラーな心を鍛える手法です。
またEQ(心の知能指数)分析を用いて感情をうまくコントロールしていこうという試みもあります。どのように分析するかとえいば、まず自分の感情や他人の感情をとらえる能力がどれだけあるか、そして自分の感情をどれだけコントロールできる能力がどれだけあるかを数値化します。具体的にはこちらのサイトを参考にしていただきたい。簡単に数値を出すことができます。
https://lab-brains.as-1.co.jp/enjoy-learn/2023/08/52359/
筆者はかなり平均点を大きく上回る高得点であったが、それは歳を重ねてここで求められている能力が鍛えられた証拠であると感じた。もし20代のころに試したのなら点数は平均点に近かったと思う。
確かに心を鍛えるといっても、心の性質は前述の2例のように性格や気質、知性も大きくかかわることだと思う。筆者の身近な例では、息子が小学生のころ、ちょっとした登校拒否状態になったことがある。もともと入学時にADHD、注意欠如・多動症の疑いがあり、学校から検査をするよう要請された。確かに彼は他の子供と比べてよく言えば個性的、悪く言えば落ち着きがなく、物事を独自の味方をするタイプだったことは認める。普通、ブロックで遊ぶときに多くの子供はブロックの突起している方が上、へこみがある方が下だと認識して組み立てるが彼は逆にして遊んでいた。おそらく子供たちは他人がそうしているのを見て「自分が間違っている」と気づくのだと思うが、彼はそんなことお構いなしに逆さの建物を作り上げる。いや、確かにそれでも実は遊びとしてさほど支障はないのだ。
結果的に言うと彼は一時期、毎週水曜日だけ別の学校の特別支援学級に通うことになったが、親からするとその必要はないように思えたが、彼にとってはそれはむしろ楽しいことのようだった。
しかし、こと勉強に関しては他の子よりも遅れること甚だしく、何より宿題が大嫌いだった。ここがポイントだが、彼は勉強を退屈なものだと認識し、その認識が集中力を欠き、結果的に家でどんなに勉強をさせても目を離すと寝てしまっていた。それを無理やり叩き起こしたところで一度眠くなった子供の眠気を覚ますような怒号を浴びせることは筆者の矜持には反していたし、カミさんもそれには同意していたので、勉強ができなくても生きる道が閉ざされるわけではなしと、わりとじっくり構えるようにしていた。
ひとつには彼の行動が手に取るようにわかっていたので、心配はしなかった。宿題を忘れた(やらなかった)次の朝は、足が痛いだ、頭が痛いだと駄々をこねて泣きじゃくる。こっちは「そんなのは嘘だ」とわかるので無理やりに学校の前まで文字通り引きずっていくのだが、さすがに根負けをして「じゃあ、帰ろうか」というとすたすたと歩き始める。「おい、足が痛かったんじゃないのか」とただすと、左足を引きずり始める。おいおい、さっきまで右足を引きずっていたじゃないか。
愛すべき我が息子は嘘をつくという知恵をつけた。ただ、彼はよく考えていないので辻褄をあわせることができていない。なんて可愛らしいのだという親ばかが発動し、筆者は笑いながら家に帰った。
そのとき筆者が考えたのは彼の心の未発達さは果たして先天的な疾患なのか、或いは成長が遅いというだけで、ある年齢を超えると人並みくらいにはなるものなのかを見極めなければならないということだった。
日中仕事で彼の行動を知ることはできない。だが彼はよく仲のよい友達を家に連れ込んではゲームをして遊んでいた。ゲームといっても筆者が当時ゲーム会社に勤めていたこともあり、レトロな物からPCまで様々なゲームが置いてあり、友達からすればゲームやり放題の空間が羨ましかったのかもしれない。筆者はそこでのどのよに遊んでいるのかを観察し、息子がリーダーシップをとり、しっかりと人とコミュニケーションが取れていることの安堵したものだった。
またインディーズアーチストのライブにお姉ちゃんと連れていったときも、彼はものおじすることなく癖のあるおじさんたちと友達のように会話をしていた。つまり相手を大人だから対応を変えなければならないということはできていないが、その分、普通の子供たちよりも大人たちと愉しいおしゃべりができている。むしろ娘のほうが委縮していた。それは正しい。正しいが、遠慮のない息子のほうがその場を愉しめているのだから損得で言えば息子は得な性格だと言える。
さて、彼の心は未発達のところはあるものの、その後中学で卓球部に所属したことから大きく成長をした。自分のプレイでチームの勝利が決まる中、自分の勝ち負けを周りが応援してくれるという環境が彼の心を大きく成長させた。担任の先生からは「あなたの息子が行ける高校はありません」とまで言われた成績下から数えて5位以内の彼は、高校受験のぎりぎりのタイミングでしっかりと学力を上げ、どうにか高校に行くことができた。
彼の通う高校の学園祭に遊びにいったとき、彼がそこで交流関係の中でしっかりとイニシアチブをとっているのを見て安堵したのはついこないだのように思えるが、そんな彼が大学を目指した娘より先に高卒で社会に出たときたくましさも感じたものだった。
ここまでは親ばか自慢話であるが、大事なことがある。彼は社会に出て彼の社会人としての筋をそれなりに貫いていたのだが、ついに心が折れてしまい病気を理由に退職することになった。いったい何が起きたのだろうか。本人に聞いても要領を得る答えは返ってこないが、筆者が想像したいくつかのパターンを彼に披露したところ、あるエピソードに彼は涙を流した。それで十分だった。
社会に出るというのはひとつのギャンブルでもある。特に入社したての頃というのは、自分の裁量でできることは少ない。彼は自分がイニシアチブをとれるような環境においてはストレスなく過ごせ、彼の能力を発揮することができるが、そうでない場面において、そのストレスに対抗できるような心の力をまだ獲得はできていなかったのだろう。これはある意味親の責任でもある。やはり鉄は熱いうちに打たなければ鍛えることはできないのだと痛感している。
改めて人の心は鍛えられるのかということについて考えてみよう。EQを紹介したサイトでは学校にいかなければならないのにいくことができない心はどのような状態であるかという例を挙げている。行かなければならないという認識と行きたくないという心があり、それをコントロールできずに学校へ行かない、或いは行っても強烈なストレスによって心身ともに疲労してしまうという状態をいかに改善することができるのかという指標としてのEQ分析である。平たく言えばやりたいこととやりたくないこと、やらなければならないことをいかに自己解決できるかということになる。
息子の例で言えば、学校に行く理由が卓球というスポーツとそこでの人間関係が良好であるということから、行かなければやれないことと引き換えに行きたくないを制御していたことが考えられる。そしてやればできるのだということ、勉強の中にも数学は答えが出たときに気持ちがいいという感覚を身に着けたこと。これらが高校受験の成功につながったと分析できる。高校でも卓球部をやりたかったが部員が足りず、結局まさかの軽音楽部に所属し、バンドでドラムを担当している筆者でも驚くようなギターの弾き語りを披露するに至る。これには驚かされた。彼はゲームで倒せなかったボスキャラを何度もトライして攻略方法を見つけゲームをクリアしたときの喜びを知っている。それがゲーム以外でも卓球やギターの弾き語りを通じて現実社会でも通用することを学び、心が開いたのだと思う。
社会人になってからも同期が次々とやめていく中、彼は上層部への不満を漏らしながらも毎朝決まった時間に起きて会社に行っていた。彼の心を挫くようなことがそこで起きたことは残念だが、社会とはそういうものだということを彼は知り、今は少々不貞腐れてもいる。しかしこれも心の正しい現れだと思う。もうあの経験はしたくないとなってくれたのはよかったと思う。
各いう筆者も実は社会に出て最初の会社を数年でクビになった経験を持つ。そこから社会に復帰するまで数年かかった。心が付いていけないところに無理やりに何かをするというのはしんどい。それを許してくれる家があったからこそ、心を整えることができたのだと思う。もちろん荒療治も時には必要なのだけれども、心は確かに成長をするもの、そして鍛えることのできるものであるけれども、そこに注力する前に整えるということが筆者には重要に思える。
鍛えることと整えること。鍛えるはパラメーターを上昇させることであり、整えるとはそのバランスを保ち、正常に機能する状態に整備することである。その二つは車や楽器に例えるならオーバーホールとチューンアップではないだろうか。
オーバーホールとは自動車や楽器をいったん解体し、部品一つ一つを整備してもとの性能を100%発揮させること。チューンアップはその過程でいくつかの部品を改良または性能の高い部品に交換して性能をアップさせることだ。心が原因で大きなストレスを抱えたり何かに対する苦手意識を持ってしまった場合、しっかりとその原因とそれに対抗するのに自分の度量がふさわしいかどうかを見極める作業となる。
どんなに頑張っても人と接することが苦手な人がサービス業をやる必要はないのだと思う。もちろんそれが好きならば別の話であるが、自分にあった職場を見つけることに注力したほうがストレスがない。簡単に言えば何が好きで何が嫌いか。気持ちのいいことと悪いこと、論理的な思考による成果が期待できる分野なのか、感覚、センス、経験が活かせる分野は何なのか。自分の心がある状況で強いストレスを感じる原因を探り、トレーニングによって解決できることなのかどうかを見極める必要がある。
チューンアップはスキルの向上によってできること、やることに対する自信をつけることがこれに当たると思う。書籍を読んで学ぶもよし、何かの講習を受けて資格をとるもよし。それによって自己肯定感が高まるものを取り入れることで心に余裕ができる。
逆に極端なチェーンアップは、かえってパフォーマンスを悪くすることもある。ある部分だけを強化したところで、ボディの強さは変わらない。耐えられないスピードやパワー、敏捷性を発揮すれば必ずどこかにガタが来る。
ここまでをまとめてみよう。ストレスとは恐怖や怒りといった感情に現れる。そう感じる自分の心がトラウマにあるのか、或いは自己肯定感の不足や他人の感情を理解する能力の不足が生む摩擦なのか。もちろん精神的な修行もその中の一つとして有効だ。集中力を高めるルーティーンを身に付ければ、ストレスのある状況でも自分の心の平静を保つことが可能になる。つまりは不安を取り除くことが優先度が高く、ストレスへの耐性は何かを反復して行うことで対処できることもある。
人前で話すことを前もって原稿を用意して何度も練習すればいい。質疑応答にも想定される質問をあらかじめ考えておけば対応できる。筆者が顧客と相対するときは、相手の気分や性格を話をしながら分析して対応する。それができるようになるには場数が必要で、だからこそ場数を踏んだ自分には自信があり、EQのテストも高い得点が出る。最初からは無理な話であると同時に、誰でもそうなれる可能性を示してもいる。
そして最後にもうひとつ、大事な機能が人間には備わっているのだと筆者は考える。それは夢をみることである。夢は概ね悪い夢、変な夢は覚えている。逆に気持ちのいい夢を見てもすぐに忘れてしまう。これは過度なストレスから心を守る脳の機能だと考えられ、思い出しても効果は少ない。つまり平時に観る怖い夢は、環境の変化に対応するために脳がストレスチェックをしているのだと筆者は捉えている。とんでもないミスで顧客に怒られる夢は、事前の準備に自信がない時に見る傾向にあるのではないだろうか。
また筆者は自動車免許を持っていない。夢では何度も無免許運転をして危うい目にあっているが、それは免許を持っていないことの潜在的な引き目を感じる心を夢によって顕在化することによって、自覚と自己肯定を促す作用だと考えている。常々免許を持っていない不便を感じながらも、事故を起こした時のリスクと自分の性格を考えたときに他人の命を預かるような、或いは脅かすようなものを扱うのもまたストレスなのだから。
ただこうした夢を見るためには知識が必要で、筆者は車の運転方法は知ってる。だから運転をしている夢を見るのだと思う。知らなければ違う形の夢を見ていたのだろう。
そして、そうした夢を見なくなった時が心の衰えのときなのではないかと筆者は考える。なぜなら心がストレスに対する準備としての夢むるという機能が無意識の中で発動しなくなるということは、侮りや怠惰ということよりも心が外的刺激に対して反応することを想定する必要がない或いは対応できなくなっている表れではないかと考えるかだ。それは身体的な衰えとリンクし、危険を察知しても身体が反応できないのであれば、悪い夢を見てストレスの耐性をつける意味がなくなることが想像できる。歳をとり体の自由が利かないときに、高いところに上って降りられない夢や、無免許で捕まる夢を見たところで、その夢の記憶が役に立つとは思えない。人の身体は無駄なことはしないのではないだろうか。それが衰えのサインだと思う。
心は鍛えられる。しかし他人に強要すべきものではないし、人並みとはあやふやなゴールラインだ。怖がりは怖がりの利点もある。日常生活に支障がない分には、努めて鍛えることはないだろうし、それが楽しいという人、できないことができるようになることがうれしいという感覚を持っている人は大いにやるべきだろう。簡単に言えばだれもがヒーローになる必要はない。村人Aには村人Aの喜怒哀楽がある。人生があるのだと自己肯定できることが望ましい。そしてそんな村人Aには勇者に有力な情報を伝えるという役割や、いかに自分たちが悲惨な目にあっているかと訴える役割がある。それでいいのではないかと筆者はそういう立場をとりたいと思います。
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