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ゼロリセット~アンチテーゼなんかいらない。

 考えれば考えるほどバカばかしと思う事がある。

 生きている限り、感情論でも論理的にも人は何かの犠牲の上に立っている。今日食べたファストフード、百円均一ショップで買ったペン。すべてが等価交換で自分の手元に届いているかといえば、決してそうではない。

 人類の歴史は……というか生き物である以上、食物連鎖の上位にいればいるほど何かの命を接種して生きている。

『いただきます』とは、元来、その食事を用意してくれた人への感謝ではなく、そうした命に対してするものであって、対価を払っているのだから、感謝の気持ちをいちいち表明する気がないという人とは、なんというか、僕は付き合えない。

 いや、付き合わないほうがいいと思っているだけで、案外そんな人は僕が気づいていないか、見過ごしているかでいっぱいいるような気がするし、重箱の隅をつっつくような人間関係をわざわざ選択しないことで、僕は『いい感じ』にまわりと折り合いをつけてきているのだと思う。

 noteではたびたび、『アンチテーゼ』としていろんなことを書いてきたけれども、もし全部読んだとして、僕自身に一貫性がないことを棚に上げて、優先順位的なことでいえば、つまりは今思う事を書き記すことにとてつもなく価値を感じつつも、どこかそれでいいやと妥協している自分も確かにいるのだ。

 なんというかそれは格好のいいことではないし、どちらかといえばズルの部類なのだと思うけれども、それを否定するだけの根拠が自分の中にない限りにおいて、僕は自由にここに言葉を綴ってきた。

『これでいいのだ』と100%自分を肯定しない事が、小ざかしい逃げ道だと知りながらも、僕はどうやら自分を追い詰めるためにここに書き記しているのではないかという視点を持つに至った。

 至ってしまった以上は致し方がない。

 今年は二十歳になるという女性を食事をしたときに、さて、これはいったいどうしたものだろうという気分にさせられた。彼女はついつい『しかたがない』という言葉を吐いてしまうと吐露していた。

 僕は相変わらずの調子で「わかるわかる。でも『しかたがない』で片付けちゃいいけないことに気づきさえすれば、それはそれでいいんじゃないの」とのらりくらり、相手の話にあわせてしまう。

『いや、違うだろう』と思いつつも、自分がそのくらいの年齢のときに、いかに自意識過剰で、根拠のない自身に満ち溢れ、人を傷つけてしまっていることにもまるで気づかずにのうのうと生きていたということを『思い出す』などという能動的な行為ではなく、肌で感じ、気づいたときには自己防衛のために都合のいい言葉を見つけ出してしまう自分に辟易しつつも、親権に僕の話を聴こうとしている彼女の目に、どうしようもなく焦がれてしまっていた。

 ああ、これが歳をとるということなんだと赤い彗星が若いニュータイプにぶん殴られるような描写が脳裏を掠める。

 ならばいっそう、それをよしとしよう。

 僕は僕でいつまでも若くあろう、若くありた意と思おう、そうすることで老け込まないようにしようと抵抗を続けてきたのだ。それがそろそろ限界ではないかという疑いを僕は持ち始めたのである。

『ああいう大人にはなりたくない』そんな気持ちを持ち続けている事で、嫌いな自分にならない努力――或いは先延ばしをし続けてきて、いい加減僕はいつまでも『若くありたい』としがみつく事に限界を感じ、ここはもう、なにか踏ん切りのようなものをつけなければと、闇雲に思考を重ねる。

 嘘つきは嫌いだが、嘘は嫌いじゃない。むしろまともな嘘がつけないようなら、それは大人とは言わないなどと、自分をはぐらかす事にはもういい加減に卒業するべき岐路に立っていると、彼女の瞳に映る自分の置いた姿を肯定するしか、どうやら出口はないように思うのだけれども。

 自分の禁を、あたかもそれが美徳であるかのように振舞う事はそろそろ止め時なのかもしれない。自分が好きだと思う事、嫌いだと思う事になにかと条件をつけて、さも『大人げがあるように』振舞うのは、いい加減限界が近いのかもしれないという疑いを持ってしまっては『今までの自分』では流石にいられないのだ。

 故に、何から手をつけるかといえば、ゼロリセット――電算装置の再起動ではなく、クリーンインストールをするようなイメージで再構築していくのが望ましい。
 これからの世の中というのはおそらく大きく変化していく。パラダイムシフトでもアップデートでもなく、変態していくのであれば、さなぎの中は完全に溶解し、再構成するのではなくては、地を這い、草花に身を寄せていたありようから、空を飛ぶ行き方は出来ないのだと思う。

 アンチテーゼは所詮アンチ。別の価値観を示す事はできても、新しい価値を生み出す事はできない。もちろん生み出すこと事態に価値があるというのではないし、何事もゼロから構築するなどありえない、或いはあったとしてもそれは奇跡のようなものであるのだから、アーキタイプをベースとした有限の変化の機能性は効率的ではあるものの、おのずとそこに限界も存在するという視点を、この際は重視してみようと思う。

 なりたい自分になることは難しい――などと言ってしまう自分をどこか評価してしまっていることに、これではダメなんだと心のどこかでは感じながらも、それで日々折り合いをつけてきた。
 やらなければならないこと、守らなければいけないことを盾にして、どちらもうまいことこなしているっていう『見せ方』が板についてしまっていることが、どうにもこの先『危うい』と直感が言っている。

 どうせ僕はうまいこと折り合いをつけることが苦にならないわけだし、『好きにする』という方向に舵をとろうが、船員を振り落として航海が続けられない事くらいわかっているわけだから、ちゃんと何かに掴まっていろと指示を出しながら進めば言いだけの話である。

 僕はここのところ、ずっと誰かの話し相手であり、自分のことを話すのはこういう場にすることで、自分の中の折り合いをつけてきた。久しぶりにちゃんと自分の話を聞いてくれる人とふれあい、そうか、自分は元来『俺が、俺が』タイプだったことを思い出す。

 今にして思えば、聞き上手であった人間関係はどこかストレスになっていたのかもしれない。結果としてそれはこのような場所で持論を展開し、或いは物語や曲を作る事で発散しバランスを取っていたと仮定するのであれば、それらの作品にはどこか素直ではない歪さが含まれていたに違いない。

 僕が憧れたもの――過日『影響を受けた映画10選』というのをFBでアップしたが、その一位に選んだ作品。『十二人の怒れる男』でヘンリー・フォンダが演じた主人公こそ、僕がなりたいもの、なりたい大人だったことに気づかされる。

『影響を受けた映画10選』第1位 『十二人の怒れる男』

『十二人の怒れる男』(1954年)
「法廷もの」に分類されるサスペンスドラマ・サスペンス映画であり、密室劇の金字塔として高く評価されている。ほとんどの出来事がたった一つの部屋を中心に繰り広げられており、「物語は脚本が面白ければ場所など関係ない」という説を体現する作品として引き合いに出されることも多い。日本では、アメリカの陪審制度の長所と短所を説明するものとして、よく引用される。

監督は シドニー・ルメット
ほか作品は『オリエント急行殺人事件』(1974年)、『狼たちの午後』(1975年)、『ネットワーク』(1976年)ではゴールデングローブ賞 監督賞

主演  ヘンリー・フォンダ
息子はピーター・フォンダ、娘はジェーン・フォンダ
『怒りの葡萄』、OK牧場の決闘を描いた1946年の『荒野の決闘』でワイアット・アープを演じる1947年『逃亡者』、1948年『アパッチ砦』、1981年『黄昏』が最後の作品となるまで、さまざまな名作映画に出演。

【内容】
密室劇の金字塔であり、法廷ものの始祖。
あらすじ
父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く。
法廷に提出された証拠や証言は被告人である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していた。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ一人、陪審員8番だけが少年の無罪を主張する。彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。
陪審員8番の熱意と理路整然とした推理によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れる。

【映画の魅力】
セリフ劇、大逆転、社会風刺、主役がかっこいい、色あせない普遍性。人間がいかに不完全であり、また間違いを正す勇気を持つことの難しさ、疑問を持つことの大切さ、命の重み、論理的思考、人の心をつかむ術、憎みきれないろくでなし、高潔さと偏見と愛情と憎悪、嫌悪と慈愛・・・魅力しかない。

そして何より脚本の素晴らしさだろう

あわせて登場人物が当時のアメリカ社会のオールスターのような面々であり、それぞれの役者が最高の演技をしている

陪審員1番
中学校の体育教師でフットボールのコーチ。陪審員長として議論を進行させる。
陪審員2番
銀行員。気弱だが慎重に無罪説に同意する。
陪審員3番
メッセンジャー会社経営者。息子との確執から有罪意見に固執する。
陪審員4番
株式仲介人。冷静沈着な性格で論理的に有罪意見を主張する。
陪審員5番
工場労働者。スラム育ちで、ナイフの使い方に関してその経験を述べる。
陪審員6番
塗装工の労働者。義理、人情に篤い。
陪審員7番
食品会社のセールスマン。裁判にまったく興味がない。ヤンキースの試合を観戦予定で時間ばかり気にしているが、夕立で試合が流れたため面倒くさくなる。
陪審員8番(ヘンリー・フォンダ)
建築家。検察の立証に疑念を抱く。最初から無罪を主張した唯一の人物。

陪審員9番
80前後の老人。8番の意見を聞いて最初に有罪意見を翻す。鋭い観察から証人の信頼性に疑問を投げる。
陪審員10番
居丈高な自動車修理工場経営者。貧困層への偏見を丸出しにして有罪を主張。
陪審員11番
ユダヤ移民の時計職人。強い訛りがある。誠実で、陪審員としての責任感が強い。
陪審員12番
広告代理店宣伝マン。スマートで社交的だが軽薄な性格で、何度も意見を変える。

【注目点】
日本で陪審員制度が導入された際にもこの映画が紹介されたと記憶している。
きっかけは「具体的根拠のない可能性の追求」から始まっている。証拠、証言、状況がすべてが黒人少年が犯人であることを示している。
「たった5分で人の死を決めてしまっていいのか」
たった1票の無罪票(not guilty)が建築家(ヘンリー・フォンフダ)から投じられ、そこから議論が始まる。

最初はなんの根拠も示せないが、そこに同調する老人が現れてから、小さな疑問が生じ、証拠や証言のひとつひとつに疑義が生じ、それらを検証するうちに、疑問は確信にかわっていくのですが、そこに立ちはだかる偏見やその場をやり過ごしたいという安易さなど、さまざまな障害と向かい合い、真実にたどり着く中で、人間の論理だけではない業や情を浮き彫りになっていく。

【思い出】
おそらく、当時好きだったピーター・フォンだの父親が出ている映画というくらいの動機で見たはずです。
そしてすっかり打ちのめされました。
密室劇、会話劇の面白さに「ああ、映画ってこういうスタイルもありなんだ!」と視野をかなり広げられた出会いでした。

【影響】
論理的思考がいかに大事かということと、それにとらわれない人間的な感性も同時に大事であることを学びました。
そしてそれらを実行するにはヘンリー・フォンダくらい、かっこいい男でなければならない(自分には無理w)

【選考に当たり】
10作品は以下の通り。好きな映画だとシャッフルされたり、入れ替わりますが、たぶん1位は変わらないかもですね。

この作品たちには本当に影響されました。
ほかにも『ゾンビ』や『時計じかけのオレンジ』『地獄の黙示録』といった作品も僕は影響を受けていますが、やはり10代に見た作品が多いですね。

十二人の怒れる男
ヘルハウス
午後の曳航
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー
遊星からの物体X
ミスターグッドバーを探して
ブレードランナー
パーフェクト・ブルー
大脱走
スタンド・バイ・ミー

 考えれば考えるほど、自由というのは不自由なものだと思う。自由になろうということはある意味馬鹿げている。自由など放棄してしまったほうが、実は楽なのである。
 何かにすがって、それを手放せない不自由、憎しみや嫌悪や偏見に身をゆだね、或いは己の愚をしかたのないことだと諦める自由もまた、自分の在り方を制限してしまう。自分の愚を知ってしまっては向き合わざるを得ない。

 摩擦を避けるほうが賢いし、スマートだけれども、その分自由は制限される。自由の価値など生きていくうえでたいしたことではないのだと、僕も思う。その一方で、自由に憧れてしまう自分は確実に存在する。

 憧れたのであれば、それに向かわないのは、幸せになろうとしないのは罪だという僕の信念じみた言葉にも合致しない。どうせ無責任意いまある責任を放置できない自分を知ってしまっているのだから、本当の意味で自分に折り合いをつけてもいいころなのだと思う。

 手放す事を恐れず、壊れる事を恐れず、自由でない事を恐れるべきなのだ。どうせ何者にも迷惑をかけず、誰の命も奪わず、生きていく事などできないのだから、犠牲に見合ったものを手に入れようとしないのは、やはり罪なのだと思う。

 もうそろそろ、アンチテーゼではなく、テーゼを語るときなのだ。

 そんなことを静岡でおいしいカルボナーラを食べながら考えた。普段はあまり食べる事のないメニューを選んだ自分は、変わりたいのだと思う。

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