見出し画像

『紫煙草子』⑤

前回

 
 


 
 

紫煙草子(しえんぞうし)

第1話:鬼

 
 
立江たつえさん、ただいま戻りました」
自分一人で乗って帰ってきた舟を着け、点検を終えて、店の裏口から入る。自分の周りの空気が一気に「現世」のものになるのを感じつつ、俺は立江さんに挨拶をした。
相変わらず雨の音が聞こえる。
「遅かったじゃないか」
店主・馬場立江ばばたつえさんはこちらを見もせずに言った。
「こっちにも事情があったんですって」
店のエプロンを着けながら、俺は立江さんを見やる。彼女の手元の灰皿には、揉み消された煙草が、それこそ針地獄はりじごくかと見紛うほど山になって積もっていた。
朝から何本吸ったのだろう。それを片付けるのは誰だと思っているのだろう。
「……驚かされましたよ。あんなに穏やかだったのに、いざ舟を出した瞬間に様子が一変したんですから」
ともあれ。俺は先程までの状況説明にかかる。
「それともあれが、『母は強し』ってやつなんですかね?」
 
 
 
 
「舟を、戻してください」
河端恭子かわばたきょうこさん。気弱だが優しい彼女は、夫のことを思い出した途端、その柔らかな雰囲気を豹変させた。
「殺して……やる」
ごう、と一つ風が吹く。
桜色の霞が散らされる。
「ああああああ、あああ、あ、憎い憎い憎い憎い! あの男が憎い! 私の大事な拓斗たくとを殺したんだから、仕返しくらいしてもいいでしょう? してもいいですよねさせてくださいよ! ね! ねぇ!」
両手で顔を覆い、苦悶くもん怨嗟えんさの声を上げる河端さん。
「……仕返し、したいんですか?」
まずい。思わぬ展開に内心焦りつつ、俺は努めて冷静に呼びかける。
「このままでは、河端さんは怨霊になってしまいます」
「だから何?」
「魂がけがれてしまうんですよ」
 
 
過去にもそう、怨みを残して死んだ女の子が、うちの店から怨霊と化して飛び出していったことがある。彼女は自分をいじめていたクラスメイトを殺すだけでは飽き足らず、いじめに気付かなかった両親も、彼女を軽んじていた兄弟も、クラスメイトの家族も担任教師も、自分の周囲のありとあらゆる人間を殺戮さつりくし尽くした。
復讐心とは、そう簡単に晴れるものではないのだ。
いや、むしろ晴らそうとするほど、強く大きく激しくなるもの……らしい。
 
河端さんもきっとそうだろう。夫を呪い殺したが最後、負の感情に押し流され、誰もかも殺したくなるに違いない。
 
 
「それに、いくら死んでいようとも、現世で犯した罪は消えません」
俺は説得を続ける。
「舟が彼岸に渡り切っていないので、河端さんはまだ一応『現世の者』扱いなんです。だから戻って旦那さんを殺せば、それは殺人の罪と数えられ、あなたまで地獄に落ちることになるんですよ?」
しかし、
「だからそれが何だって言ってるんだ!!」
吠えたてるような絶叫に、俺の声はかき消された。
勢いよく上げられた河端さんの顔は……目が吊り上がり、瞳がらんらんと金色に変わり、かっと大きく開かれた口の端からは牙が覗いていた。
 
 
ああ。これはもう、無理だ。
彼女は鬼になってしまった。
 
 
「あァのおとこがぁ、憎イ、憎いぃぃ」
風がどうどうと吹き荒れ、鬼女きじょの髪を乱す。
次々放たれる凄まじい呪いの言葉が、水面にさざなみを立てる。
「殺す、殺します、殺す、頭ヲ潰して殺す、首をねじぃって殺す、両手両足もいでコろす、腹を裂いてころす、あああああ目玉をひきずり出ァして、舌を抜いてそれを喰わせて、て、骨を砕いテ、汚らしい性器も切りトって、全身皮を剥ぎとって、じわじわとひとおもいに怨みをこめてタノシく苦しくしっかり強烈に殺す殺す殺すしますシま殺すころす殺す殺す」
乱れた髪の間から、角が。
「だから、」
そして、彼女は。
「だから舟を戻せぇえええええええええええッ!!」
一瞬で獣のように伸びた爪を振りかざし、俺に向かって飛びかかって。
 
 
「まま?」
 
 
沈黙が、落ちた。
全てが静まり返った。風も、水面も、目の前の鬼女も、全てが動きを止めていた。俺もまた例外ではない。
「ま~ま」
唯一動いていたのは、幼い子。
声の主……拓斗君は、舟の上で展開されていた狂乱が理解できているのかいないのか、ともかく最も純粋で的確な言葉を述べた。
「こわいの、やだよ」
その小さな手が、鬼女の服の裾を掴む。
「…………」
俺に飛びかかりかけた姿勢のまま、彼女はしばし固まっていたが。やがて振り乱した髪のせいで窺えない顔の辺りから、声が聞こえてきた。
「……もシ、私が地獄に落ちたら、この子はどうなるんですか」
その疑問に俺は答える。
「もちろん、たったひとりで天国に行くことになります。もう怖い思いもしなくて済む場所ですが……そこにお父さんもお母さんもいないのは、少し寂しいかもしれませんね」
「…………」
 
再び沈黙。
彼女は俺から離れ、子どもの傍に座り直し、そしてゆっくり頭を下げた。
「……私はまた、間違いを犯すところでした」
静かな口調で、ぽつりと言う。
上げられた彼女の顔は、元の穏やかで優しげな母のそれに戻っていた。
「この子をひとりで行かせるなんて、有り得ないのに」
涙をにじませながら、しかし母親は微笑んで子どもの頭を撫でた。子どもも笑って応えた。
「一緒に行こうね、拓斗」
「まま、いっしょ、いっしょ」
 
 
「舟を出してください」
 
 
 
 
事の顛末を、俺は語り終える。
そして問う。
「息子さんの力で踏み止まってくれたから良かったものの、もしそれでも止まっていなかったら、あるいは息子さんの静止が間に合っていなかったら、立江さんは河端さんを引き止めてましたか?」
「いいや」
即座に否定が返ってきた。
「子どもの声で踏み止まるのも、あるいは怨霊や鬼と化して悪事を為すのも、全ては当人次第。それらをひっくるめて当人の『ごう』、『定め』なのさ。アタシ達が関わるところじゃないよ」
それに、と立江さんは続ける。
「子に関する怨みで暴走するのも、子に引き止められて思い直すのも、実に『母親』らしいじゃないか。子は強さにも弱さにもなるんだね」
「そこです。そこがよく分からないんです」
 
実は、俺の中ではどうしても納得がいかないことがあった。
河端さんの言動についてだ。
あんなにも気弱な彼女は、しかし拓斗君に危害が及びそうになれば、人が変わったように強くなった。
「そんな強さを持ち合わせてるなら、」
そんな勇気があるのなら、生前のうちに。
 
 
「さっさと逃げるか、旦那さんをブッ殺してればよかったのに」
 
 
言う。
言ってから、それが失言だったと気付いた。
 
 
時すでに遅し。
俺の左の眼球に、煙草の火が押し当てられた。
 
 
ぷぢゅっ、という粘膜の焼ける音と共に、左目で激痛が炸裂した。
「ひぎ、あ、ああああああああっ!!」
あまりの痛みに叫び、その場に崩れ落ちる。覆った手には、焼けて潰れた眼球から流れ出た、血と涙とよく分からないゼリー状の液体の混合物がべたりと付着した。
「この、阿呆あほうがッ!!」
俺の絶叫をもかき消す立江さんの一喝が、店の空気を震わせた。
「救いようの無い愚か者め! あの母親の話をあれだけ聞いておいて、最初に出る感想がそれか! 身勝手も大概にしておけ!」
一瞬で距離を詰め、俺の左目を狙い撃ちした立江さんは、フンと息を吐いて椅子に座り直す。
「その程度、自分で治せるだろ。まあ頼まれたって治してやりゃしないがね」
ぐ、と悲鳴を飲み込みながら、俺は左目に意識を集中させる。すぐに痛みは引いていき、ぐちゅりと潰れていた左半分の視界が戻ってきた。
立江さんの言ったことは事実だ。俺は些細な怪我なら数秒で治るし、些細以上の怪我でも自力で治すことができる。
まあ精神的なダメージは、そうそう簡単に治らないが。
「…………」
また立江さんに怒られないうちに、俺はエプロンのポケットから手帳とペンを取り出す。
――何度注意されても、忘れちゃうなあ。
手帳を開く。これは俺の備忘録なのだ。
 
・生き物を無意味に傷付けないこと
・物を壊したり、盗んだりしないこと
・他人の嫌がることをしないこと
・嘘をつかないこと
・だからといって本音ばかり言わないこと
・すぐ仕返しを企まないこと
・食べ物は大事にすること
・同意の無い性行為をしないこと
・自分の目的のために他者を使役しないこと
・自分は常に被害者だと思い込まないこと
・自分は常に支配者だと思い込まないこと
 
俺が忘れがちなことが、何ページにもわたって箇条書きで、びっしりと書き込まれている。重要な項目には色付けしたり、失敗したことには傍線を引いたりしているが、それでもなかなか完璧にはいかない。
その中でも俺は、今回含め何度も立江さんに怒られている項目を、改めてグルグルと丸で囲い直した。ここだけ開き癖が付いているページだ。
 
 
・自分本位な言動をしないこと
・人殺しは悪だと自覚すること
 
 
「……あの」
手帳とペンを仕舞ってから、俺はおずおずと立江さんに言う。
「それはそれとして、河端さんのクソ旦那が何の報いも受けないのは……まあ逮捕されるでしょうし死後は地獄行きですが……確かに納得いかないですね」
「それも、アタシ達が関わることじゃないね」
立江さんは肩をすくめる。
「アタシ達は『狭間はざま』の存在。此岸Hereに生きる定命の者を左右する権利は無いし、彼岸Thereに行った死者に裁きを下す権利も無い。双方を接続andする、橋渡しにして門番でしかないのさ」
ふーっ。
立江さんは煙を吐き出し……それからニヤリと笑った。
「それでもまぁ、たまには羽目を外してもいいかもねぇ。一人の母親が怨みのあまり、『生成なまなり』に……鬼の初期段階にまで足を踏み入れたんだ。珍しいものを見れただけでお釣りが来るさ」
嫌な予感がした。
立江さんがこういう、片方の口の端を吊り上げた笑みを浮かべる時は、大体俺か他の誰かがひどい目に遭う。
「さあて、地獄の体験キャンペーンといこうかねぇ」
立江さんの咥える煙草の先から立ち昇った煙は、煙草屋のカウンター小窓をくぐり抜け、雨の降りしきる外へと出ていく。
不自然に。消えることなく。どこかへと。
 
 


 
 

次回

『紫煙草子』⑥へ続く
→ここにリンクを貼ります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?