ドリップと撮影の狭間で
珈琲を淹れるのか、コーヒーをドリップするのか
前者は珈琲自体に、後者は行為に価値を持つ様な気がする。
コーヒードリップの "おしゃれ" さ
コーヒーをドリップする。
ある種職人的なこの行為に意味を持ち、価値を見出すことは不思議ではない。
インスタントでもリキッドでも、コーヒーマシンでもコンビニでも手軽に煎じた豆から抽出した黒い水(俗称:コーヒー)を飲むことができる時代に、わざわざ手間を掛けてドリップをする、昨今トレンドになりつつある懐古主義的な部分への注目は、当然のことにすら思える。
そのため、この行為に内在する "おしゃれさ" を切り取る(撮影する)ことによって表面化し、誇示したいという欲望が生じることにも、疑問はない。
ただ、自らの行為を撮影するという方法には、二つの価値を両立することへの難しさがあるのではないかと考える。
珈琲を淹れる(3湯式)
私が珈琲を淹れる場合、以下のような手順を踏む。
お湯を沸かす
豆を挽く- サーバー・カップを温める
フィルタをセットする
豆と同量の湯で蒸らす
1湯目(↑の倍量の湯)
2湯目(抽出目標量の半分)
3湯目(抽出目標量+50ml)
撮影によりハンドドリップという行為が "映える" と考えられるのは、
・4番の蒸らしのアップ
・5~7番の引き
の場面で、InstagramやTwitterに上がる写真の大部分はこれに準じている。
3湯式に則ったドリップをしていないとしても、大体この過程のどこかの場面を切り取っていると推察される。
これを成し遂げるには、工夫が必要となる。
撮影①
蒸らしの時間は、そんなに長くない。30〜40秒程度が一般的だろう。
この短い時間の中で、ドリップケトルをカメラに持ち替えて、構図とパラメータを調節してシャッターを切る。ある程度フォーマットが定まっているとはいえ、慣れていないとうまく撮影するのは難しい。
カメラを固定し、あらかじめ設定を済ませた上で、あとはシャッターを切るだけという段階まで準備しておくことが、よい撮影、珈琲の味を損なわないために必要だ。
撮影②
注ぎ込む湯量がある程度増えれば、時間的に余裕が生まれる。
常に湯を注ぎ続ける必要があるわけではないので、ここでの撮影は蒸らしよりも余裕があるが、そこまで長い時間を掛けられるわけではない。
先と同様に、あらかじめ準備を済ませておく必要がある。
結局何が言いたいのか
準備をせずに思いつきでドリップしている場面を撮影しようとするとむずかしい。以下撮影してみた写真です。
以上、実際やってみて感じたことを書き連ねただけでした。
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