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合理的な選択、遺骨処理のための「墓」は要らない。

葬送の習慣には、異様にお金がかかるものが多いが「墓」もそうだ。絶対に必要なものかどうかを検証していくことが必要だ。

松島氏の著作を読んで、遺骨の処理には、かなりの自由度があることを初めて知った。法的に言えば、火葬するか土葬するかが問題であって、遺骨を墓に入れなければいけないルールはない。

参考:「死ぬ前に決めておくこと」―葬儀・お墓と生前契約 松島 如戒

墓を持たない選択

著者は、僧侶なので、信仰心が無いわけではなく、故人を悼む気持ちは誰よりも持ちつつ、墓に関してはドライに考えている。骨は骨とみなして、それをどう処理するかという問題に絞った、いくつかの提案が書かれている。

1)火葬場から拾骨して、自宅に骨壷のまま置いておく
2)火葬場で処理してもらう
3)還骨する(散骨)

結局、このうちどの方法でも、違法ではないし、だれに迷惑をかけるでも無いのだ。これは目からウロコでした。日本人にはかなり、抵抗があるかもしれないけど、焼骨をそのまま火葬場で処理してもらうことに関してのコメントを紹介したい。

火葬場で遺骨を処理する

「最近では、焼骨を火葬場で処理してくださいとお願いすると、一筆書けばOKと引き受けてくれる火葬場が徐々に増えている。・・・収骨(骨揚げ)というのは日本の葬送習俗として定着しているので、収骨を法が規定していると勘違いしがちだが、そうではない。火葬場としても、火葬したらその焼骨を持ち帰らなければならないという規定がない以上、無理に持ち帰らせるわけにはいかない、ということのようである。つまり、墓埋法では「葬」には埋葬と火葬しかない。」(P31-32)

「私は「焼骨唯物説」である。なぜならば、近代的火葬炉で火葬されて残った骨には、個人識別要素はまったくなく、生物体の個体性を立証する最後の砦たるDNAすら喪失しているからである。」(P42)

「やたらに撒くより、骨粉(粒)にするなどのわずらわしさからも解放されるという点で、火葬場にすべての焼骨の処分を託す手法が優れている。(P43)」

死ぬ前に決めておくこと―葬儀・お墓と生前契約 (岩波アクティブ新書) (日本語) 単行本 – 2002/3/5 松島 如戒 (著)

今ではよく知られていることですが、火葬場では、温度を調節しながら、骨が適度に残るように焼いている(儀式的な意味で、最期に骨を拾うため)

そうだとすると、全く合理的な考え方としては、そのまま・・・拾わずに帰る・・。ここまで合理的な思考に面したのは、私も初めてですので少し驚いた。「え~、それはさすがにな~」とか思っちゃうんだけど、よく考えてみると、お墓にも、骨にも特別な意味を持たせないのであれば、そもそも、火葬場で焼いてもらうだけで、葬儀は完結するはずだ。

「葬式は、要らない」の島田氏は東日本と、西日本の火葬場の違いについて説明していて、西日本では「喉仏」だけを収骨する「部分収骨」が一般的だという。そうだとすれば、その他の骨は火葬場に置いてきているわけだ。

そもそも、最近では、遺骨を引き取らない遺族も増えているそうだ。

「火葬の後、遺族が『供養費は出すから、そちらで何とかして』と遺骨の持ち帰りを拒否するケースが増えています。かつてはゼロに近かったが、今では年間200体ほどに上ります」※週刊ポスト2010年12月17日号

合理的に考えよう

著者は「還骨派」で、遺骨を自然に返す方法を模索しているようだ。でも、散骨もお金をかけて大々的にやるのではなく、土や砂と撹拌してまぶして埋めればそれで良いと説いている。もちろん、人骨を見分けられる状態で埋めるのはNGだ。散骨の場合は、遺骨を細かく砕く必要がある。

本当に、合理的であるというのはこういうことだと気付かされた。(ここまで割り切って考えられる人は少ないかもしれないけど)散骨に関しても、同様の視点で、著者は頁数を割いて論じているが、とても頷ける意見だった。僧侶である著者だからこそ書けるのだとも思う。

葬送に関して考える時には、感情論にならず、合理的に何が必要なのかを見極めるようにしたい。

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大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq