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葬儀はサービス業なのか?進む「脱儀式」化と葬儀周辺ビジネスの波。

「葬式」というのは、ある意味実態のないものだったということに、多くの人が気がつき始めている。しかし、習俗とか、伝統とか、儀式とか、そういうものはもともと、その行為自体に意味があるものではない。儀式とは、もともと「何もないことに意味とか価値を持たせること」という、指摘はなかなか本質をついている。

これを語るのは、長い葬儀業界の経験を活かして、業界の裏側を暴露しまくる「野口」なる人物。また、これまた、仮名で登場する「佐野」なる人物も、ほぼ同じことを述べている。色々物議をかもした本なんだけど「死体の経済学」から引用したい。

「儀式」には適正な市場価格などない

「葬儀というのは不思議なものでやすければいいというものじゃない。たとえば、こちらが1万円の棺をすすめても、それじゃちょっとおじいちゃんがかわいそうかな・・・なんて言って10万円の棺を選ぶ人も多い。要は、遺族が満足を得られるかどうかという話。だから本当は原価がいくらかなんて議論は無意味だし、知らないほうがいい。そもそも「儀式」って何もないことに意味や価値を持たせるものでしょ。」(P28)

「佐野氏の主張はこうだ。そもそも「葬儀」とはサービスではなく、「儀式」なのだから、適正な市場価格など存在しない。その遺族が満足できる金額が葬儀のカネなのだという。葬儀に10万円しか払えない遺族に対しては、それなりの儀式を提供し、逆に1000万円でも払えるという遺族にも、それに合った儀式を提供する。「カネで計ることの出来ない心の平安を提供する仕事」それが葬儀屋だったというのだ。

だから、その収益構造というカラクリを明かすことはマイナスだった。儲けられなくなるからではない。儀式が実は単なるカネをかけたサービスだったということがわかってしまうと、人々に「心の平安」を提供することができなくなるからだ。わかりやすくいえば「葬儀」というものの価値が下がってしまうのだ。」(P217)

死体の経済学 (小学館101新書 17) (日本語) 新書 – 2009/2/3
窪田 順生 (著)

「原価がいくらだから、ぼったくり!」「原価がこれくらいで、赤字覚悟だから良心的」・・・そういうものではないと。激安を売りにした、小売店じゃない。儀式としての葬儀は、流通商品とは違う。

この前提にあるのは、顧客に「満足」を与えられればそれでOKという市場原理。需要と供給からなる市場は正直ですから、どれほどぼったくりだろうと、格安だろうと、消費者が求めるものは、サービスとして大きくなるし、どれほど良心的だろうと、いらないものは駆逐される。率直に言って大衆が儀式を求めていた時代があったのだ。

儀式からサービスへ

しかし、今や、葬儀という1つのビジネスも「儀式」を離れ、1つの「サービス」とみなされ始めている。イオンが、お葬式業界に参入したのは、大きなことだった。この点は、以前、書評もした「お葬式にお坊さんは要らない」の中で、興味深い論点で書かれている。

「イオンは、流通業者として当然のこととして、価格を透明化した。そして、サービスの質を保証した。これが、仏教界や宗教界の反発を買った。「いやいや、葬式ってのはそういうものじゃないだろ、儀式はサービス業じゃないんだから、原価とか定価とか無いので」そういったわけですが、実際には、そんな論理は、もはや崩れているわけです。イオンのお葬式が参入することによって、儀式としての葬式が崩れたのではなくて、すでに消費者の価値観が崩れていて、その隙をついて「流通業者」が入り込んだのです。価格が不透明で、顧客に「満足」を与えることができていないビジネス界があるということに気がついて。」

葬式にお坊さんは要らない―日本の葬式はなぜ世界で一番高いのか (日文新書 64) 田代 尚嗣

前述の葬儀業者2名の述べる儀式論は一時代前の論理になりつつあるのだ。葬儀を「儀式」とみなし、そこに特別な価値を付与することで消費者が「満足」を得ることができた時代は終わった。葬儀を「儀式」ではなく、単にサービス・商品と見たときに、それは他の業態と同じように、顧客に「満足」を与えなければならないし、顧客が「感謝」したときに「対価」が発生しなければならない。旧形態の葬儀業者は、この「満足」を与えられなくなっているということだ。

「もともとは葬儀屋がもらっている葬儀代だって、心づけみたいなものだったんです。身内のためにアカの他人がいろいろと一生懸命に世話してくれる。そのことに対する感謝の気持ちだった。だから原価がどうかなんて話は実は本質的ではないんです。坊主のお布施だってそう。すべては「心づけ」で動いていたものだったんです。それがいつからか、葬儀が本来のサービスから離れたカネ儲けに変わってしまった」(野口氏)P214

死体の経済学 (小学館101新書 17) (日本語) 新書 – 2009/2/3
窪田 順生 (著)

一時代前の葬儀を語る上では、「心づけ」という習慣が欠かせない(今はほとんど失われている習慣)。もともとは、葬儀は「感謝の対価」だった。昔は、ムラ社会で、または大家族で、1つのコミュニティの中で行えた葬儀を、今は「アカの他人」にお願いしなければならない。「ご面倒をかけるね、ありがたいね」、この対価が「心づけ」だ。

今は、「儀式」としての葬儀には、顧客は「ありがたい」と思わなくなっている。ただ、それだけの話なのだ。自然に「心づけ」を払いたいと思わなくなっている。「儀式」を無意味なこと、空虚なこと、とみなすようになっている。だからこそ、「感謝の対価」をもらう、葬儀周辺ビジネスが隆盛しているというのが「死体の経済学」の述べる主な内容で、読みが鋭い。

葬儀周辺ビジネスの隆盛

「たしかに、従来の葬儀ビジネスは崩壊したという意味では「おわり」かもしれない。だが、その一方で新しい時代に向けた「死」にまつわるビジネスは着々と生まれているのだ。」(P219)

死体の経済学 (小学館101新書 17) (日本語) 新書 – 2009/2/3
窪田 順生 (著)

たとえば、本書には、葬儀業界から「納棺師」に転職した「佐野」(仮名)という人物の経験が載せられている。

彼は、腐乱死体や変死死体を専門で扱っていた。そんななか、交通事故で娘さんを亡くしたお父さんに出会う。娘さんの遺体は、顔の右半分が損傷して、肉片がはみ出るようなものだった。お父さんは「なんとかしてほしい」と涙ながらに頼む。彼はその涙を見て、なんとかしてあげようと、遺体を必死で「修復」する。

「裂けた傷を釣り針で縫い合わせ、それをファンデーションで出来る限りわからないように隠してやったのである。もちろん今のエンバーミングなどの技術に比べたら稚拙な修復作業である。それでも、父は泣きながら佐野氏に「ありがとう、ありがとう」と何度も言った。佐野氏の中で何かが変わった瞬間だった。「人が嫌がるような遺体ということは、裏を返せば、遺族は困っているのだという当たり前のことに気づきました。それと同時に、葬儀業というサービス業の中で決定的に欠けていることがわかったんです」(P114)

死体の経済学 (小学館101新書 17) (日本語) 新書 – 2009/2/3
窪田 順生 (著)

佐野氏は、ここで顧客から「ありがとう!」という言葉を受けて、まさに対価をもらうに値するサービスを提供出来たということに気づくのだ。そこで、レンタル料などで暴利をむさぼる葬儀業界を抜け、納棺師として歩み始めた。

この同じ考え方は、「死体とご遺体(夫婦湯灌師と4000体の出会い)」の熊田さんも述べている。お客さんから手を握って感謝される、涙ながら感謝される、こんなにしてもらって(遺体を洗って清める)ありがとうと感動される。こんな仕事は無い。

感謝され、満足するという対価を手にしているのは、「儀式」としての葬儀社ではなく、遺族も出来ないことを行う「サービス業」としての葬儀周辺ビジネスになっている。どの業界も、消費者が求めるものを提供していかなければならない。そうであれば、葬儀業界が大きな流れの中で、方向転換を計る時期に来ているというのは別段不思議ではない。

遺族は、遺品整理や、清掃、死体の保管技術などに投資する時代が来ている。必要のあるところには、いくら払っても惜しくないけれど、必要の無いサービスには1円だって余分に支払いたくない、これはいつの時代も、世の常、人の常だ。そうだとすると、葬儀革命?は自然なことなのだ。


大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq