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サムライ魂は陽明学で練磨され、神道へ辿り着く

世界的な数学者だった岡潔先生は陽明学について、「ああいうものは中国からきて日本化したのではなく、もともと昔から日本にあったものなのである。」と考えておられました。

前回の記事では、古来からの日本人の精神性の中から、陽明学的な考え方や、あり方を抽出してみました。確かに日本人はもとから陽明学的な精神性を持っていたと思われます。

日本の近代化に大きな影響を与えた陽明学

「新政府設立当時、明治大帝の周囲にあれほど多くの有力者がいたことは、確かに驚異であった。……王陽明の哲学はあまりにも進歩的であるために、シナでは深く根を下ろしたことはないが、日本では、私のいわゆる『55人の明治建設者』のことごとくが、その信奉者であったと思う」

この言葉は明治時代にアメリカからやってきた、日本研究家であるウィリアム・E・グリフィスの言葉だそうです。(参考『真説「陽明学」入門』/著・林田明大/三五館)

このように、本場の中国ではあまり受け入れられなかった陽明学ですが、戦国期の豊臣政権時に日本にもたらされて、以後独自の発展を遂げました。学術的にも現在世界をリードしています。もはや日本の学問とさえいえるかと思います。

16世紀末、戦国期の豊臣政権時に日本にもたらされた陽明学。当時は京都五山(臨済宗の南禅寺・天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)の僧侶達により、それ以前に伝わっていた、朱子学と同様に学ばれていました。

京都五山の一つである相国寺の元僧侶であった藤原惺窩(ふじわらせいか)もその一人で、その弟子である林羅山(はやしらざん 京都五山 建仁寺の元僧侶)は徳川家康の招きで家康から始まり4代将軍家綱まで将軍家に仕え、文部行政全般に深い影響を与えました。

羅山は、「上下定分の理」という学説を唱えます。「宇宙の原理すなわち「理」は、人間関係において上下の身分関係として現れる」という、幕府の身分制度を正当化する理論でした。羅山の働きによってその権威が確立された朱子学は江戸幕府公認の官学となります。

このように、権威を確立した朱子学は武士の教養として広く学ばれていくことになりますが、一方の陽明学は幕府に優遇されるどころか、藩によっては陽明学禁止令(熊本藩)が出されるなど、危険思想とみなされがちでした。

もちろん陽明学を藩学として信奉するところもありました。岡山藩は藩主の池田輝政が陽明学に傾倒し、以後藩内で盛んに学ばれるようになりました。

その隣の備中松山藩にて、幕末に藩政改革を行った山田方谷という陽明学者がいました。その山田方谷ですら、門人から陽明学の教えを請われても、己の心のままに行為に走ってしまいやすいという、その危険性から、安易に教授することはありませんでした。

つまり、大塩平八郎の乱のように、革命思想に繋がる危険性があったわけで、この点では幕府の政治を安定させるための朱子学とは、対照的な立場にありました。

陽明学とは世の中を安定させるというよりも、革新へと着き動かす力がありました。幕末になってみると、雄藩と呼ばれた薩摩、長州、土佐、会津などは、ことごとくが陽明学が盛んだった地域です。

日本の陽明学の開祖 中江藤樹

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日本陽明学の開祖、中江藤樹(1608〜48)。その高潔さからのちに近江聖人と呼ばれ、村落の教師として人々に慕われる存在でした。そんな藤樹ですが、実は「郷里の母親のもとに帰りたい」という思いから、脱藩という重罪を犯し、その後は酒屋を営んでいました。独学で陽明学を学び、弟子をとるようになり、晩年には独特な宗教観を説き始めます。

藤樹は、寛永15年(1638)『原人』『持敬図説』という著書にて、超越的、原初的な人格神の存在を説きます。道教の神観念に強く影響を受けていたようですが、キリスト教の影響ではないかとの指摘もあります。

そう考えると、明治初期に陽明学を学んだ人々の多くが、プロテスタント教指導者として活躍したといいますし、その中でも有名な内村鑑三は、藤樹を深く敬愛していたものと思われます。

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内村鑑三(1861-1930)  写真:1918年頃

藤樹の考えは、儒教の礼法と、日本の神道の祭儀は一致するという「神儒合一論」へと展開します。藤原惺窩、林羅山をはじめ、朱子学の一派〈崎門学〉の創始者にして、神道の教説〈垂加神道〉(すいかしんとう)を説いた山崎闇斎、荻生徂徠をして大儒学者と言わしめた伊藤仁斎も、この「神儒合一論」を唱えました。

江戸時代初期に儒学と神道は融合し、以来、江戸時代の神道は〈儒家神道〉が主流となります。

藤樹は神儒合一した神道のことを、『翁問答』の中で「太虚神道」と呼んでいます。

「さて元来をよくおしきわめてみれば、わが身は父母にうけ、父母の身は天地にうけ、てんちは太虚にうけたるものなれば、本来わが身は太虚神明の分身変化なるゆへに、太虚神明の本体をあきらかにしてうしなはざるを、身をたつる云也」(上巻之本)
「人間の出生こと父母のわざのごとくなれども父母のわざになることにあらず。太虚上帝の命をうけて、天神地祇の化育したまふところなり」(下巻之末)
「天神地祇は万物の父母なれば、太虚の皇上帝は人倫の太祖にてまします」(下巻之末)

自分を生み、育んでくれた親の、さらに親のまた親と、辿っていくと天地万物を生み出す根源神に行きつきます。神道でいえば天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)に当てはまるかと思います。そこから生み出された人間は、神とつながり、神から生まれながらに良心を与えられていると、説いているのです。

中江藤樹は、慶安元年(1648)藤樹は40歳という短い生涯を閉じますが、その後は高弟である熊沢蕃山、淵岡山らによって継承されます。

熊沢蕃山は岡山藩の池田氏に仕え、陽明学を広めます。蕃山は神儒合一論から〈三種の神器〉が儒教の〈知仁勇〉を象徴しているとし、この三徳が極めて重要で、尊皇思想へと発展し、以後これは水戸学に受け継がれます。

淵岡山は藤樹の宗教的教えを継承し、とくに会津地方に根付き、会津心学または藤樹心学と呼ばれました。

中江藤樹に始まった陽明学は、その後全国へと広がりました。時は流れて江戸末期に、佐藤一斎という、その後の日本の情勢に絶大な影響を及ぼす陽明学者が出ます。官立の昌平黌(しょうへいこう)の教授を務め、朱子学を講じましたが、その学説は陽明学でした。

代表的な著作『言志四録』は坂本龍馬、佐久間象山、勝海舟、吉田松陰、西郷隆盛などに多大な影響を与えたといいます。

西郷隆盛はこの『言志四録』の1030条の中から、101条を選び抜き座右の銘とし、『南洲手抄言志録』として後に出版されます。西郷の残した有名な言葉に「敬天愛人」というものがあります。

私が咄嗟に「好きな言葉は?」と質問された際に、思い浮かぶ唯一の言葉が「敬天愛人」です。

天は人に命を与え人を生かして愛してくれる存在であるから、その天を敬い讃える。同時にその受けた恩恵をそのまま、他人に愛を与える。そんな意味だと捉えています。

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

この言葉は西郷を慕っていた人々によって編まれた『南洲翁遺訓』におさめられた言葉です。この言葉に見られる高潔な志は正に、中江藤樹に始まる日本陽明学の精神を継承したものと思われます。

そして、結局のところは日本の神道に行き着きます。

私の人生の目的

神道には教えがないといいますが、言葉や考えといった学問を外国から輸入して消化し、独自の日本文化として築き上げた結果がこのような思想として現れたのだと思います。

結局本質は変わらない訳ですが、陽明学を学んで日本の神道のことがより深く理解できました。私はずっと、日本の精神文化を明確に捉えたいと思い勉強してきました。

確かに、岡潔先生の仰るような、自分の命を省ずに社会の為に身を投げ打つ事が出来る「日本民族の中核の人」を増やしていければ、もっともっと世の中は良くなります。

岡先生は当初日本民族の滅亡を危惧されていたそうですが、晩年それは阻止できたと悟られたそうです。私が生まれる前の話ですが、ありがたいことだと思います。

確かにあの時代は、核戦争で人類滅びてもおかしくない状況でしたし、人類存続か滅亡の瀬戸際だったのかもしれません。

私が生まれてきた時点でこの日本と世界は、難しい状況でも共存して生きていくことを選択していました。

私の人生の目的は、今までこのnoteで紹介してきたような歴史的・文化的な、また心のあり方や考え方といったような、精神的な財産を保護することです。そのうち、精神財保護課を各市町村に設置して欲しいです(笑)。

人間は何を頼りに、いかに生きていくべきか、あまり人は真剣に考えないし、勉強しないと感じています。なので、人間が生きる上でいくらかプラスとなれる材料を形作って、この世の中に提供したい。

それによって、この世をもっといい世の中にしていけたらいいなと思います。

神主を辞めた今だからこそ、人生の目的について改めて考えることができました。

1週間に渡り、サムライに関するシリーズ記事を投稿して参りましたが、一旦ここで区切りといたします。

最後までこの記事をお読みいただきましてありがとうございました‼︎

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