見出し画像

両親の老い

5月の風が吹くさわやかな夕方。
暑くもなく寒くもない。
今が一番いい気候なんだろうな。
昼間は暑いけど。

母が近所にある焼肉屋のお弁当を買いに行くっていう。
イッヌの散歩を兼ねて一緒に歩いた。



当たり前のように母は私の横を歩いているけど、この情景もいつまでも続くわけじゃないんだなと思いながら、切ない気持ちになるのを抑えながら歩いた。

母は隣で他愛もない話をして笑っている。
イッヌはあっちこっちの草むらの匂いを嗅ぎながら自由に歩いている。


なんて平和なんだろうか。










いつかは父も母もいなくなる。



そして私は一人になる。





それがいつなのかはわからない。



心理学を学ぶようになってから、ほんの少しだけだが老いていく両親に対しての見方も変わったように思う。



現在、50代の私は「死」に対して恐れを抱き始めている。

20代や30代の頃の自分は、「死」について考えることはどこか他人事であり、自分とは関係ない、私はまだ死ぬわけないと何の根拠もないがそう思っていた。
それが40代に入り更年期を経験し、体や心の不調を感じるようになると私もいつかは死ぬのだろうなと思うようになってきた。

だが、まだ死ぬのは怖い。
この殺伐とした世の中に生きていると、生きていくのめんどくさいなぁって思うことも多々あるけど、だからってまだ死にたくはない。


だから、両親もそうなんだろうな、いつか訪れる「死」に怖れを抱いているだろうと思っていた。

が、両親はそうでもないようだ。
特に母親はその感じが強い。
一日でも長生きはしたいと思っているようだが(元気で通院しているのが何よりの証拠だろう)、死ぬのはさほど怖くないと言う。

以前は、親自身、やせ我慢で言っているのだろうと思っていたのだが、どうやら違うようだ。

去年学んだ「発達心理学概論」のテキストに、こんなことを書いてあった。


【老年期の発達】
喪失体験が重なると、悲しみや後悔が先に立ち、自分の人生が無意味なものに感じられたり、不安や絶望感を感じたりすることがあるかも知れない。しかし、最終的に「よく生きた」と自分の人生に受け入れることができたとき、統合が達成され、知恵が獲得されるという。この知恵とは、「死そのものに向き合う中での、生そのものに対する聡明かつ超然とした関心」と定義される。(中略)家族であれ、友人であれ、専門家であれ、「よい聴き手」の存在は、高齢者が人生を統合するのを助ける。自分の人生を統合できると、死への恐れも少なくなる、実際、死を恐れる気持ちは、青年期から中年期にかけて強くなる一方、健康な高齢者ではあまり見られないという。人によっては、さらに「老年的超越」へと至り、物質的・合理的な視点を離れ、神秘的・超越的な視点から、死を親しいものとみなすようになるとされる。

発達心理学概論 第13章



両親を見ていると、確かにそうだ。
テキストでいうところの「統合」をしているんだろう。

よく生きたと思える事柄を並べていくことをしているのだろうな。


両親がよく生きたと思えて死が迎えられるように、家族は何をするのがいいのだろう。

そんなことを考えるきっかけになった散歩。

そして去年のテキストを開きなおして、読む直す私。


穏やかな気持ち。