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私は不調である前に私であった~週2日営業のカレー屋さん~

今日は心はすこぶる元気なのに、起きたときから頭がぐわんぐわんして、体中に力が入りづらく、何をするにもひと苦労。
そんなときに布団の中で読む『違国日記』はまあ、ぶっささる。
槙生ちゃんの言葉が、涙が出るほど沁みてくるし、心を奮い立たせる。

槙生は、漫画『違国日記』の主人公。人と一緒にいることが得意ではなく、家で小説を書いて暮らしている。この物語はそんな槙生と姪の朝との共同生活を描いている。
いや、それだけではない、人間の繊細なところをこれでもかと丁寧に描いている。

槙生は「ふつう」のことができない。片付けられない、気配りができない。ある日、朝に「なんでこんなこともできないの!?」と問われる。

そういうふうになぜか生まれた
……あなたがさみしがりやに生まれたように
それは選ぶことも咎めることもできない

『異国日記』38話より

そういうふうになぜか生まれて、それは選ぶことも咎めることもできない…。
なるほど、そうかもしれない。
これは「受け入れる」とかいう穏やかなものでもなく、「諦める」という悲しみを帯びたものでもなく、まさしくそれが「生きる」、もっといえば「生き延びる」ということなのかもしれない。

私にも「ふつう」のことができない。
ときどき体がだるくてたまらないので、毎日コンスタントに働くことはできない。頑張ってそれをしたとしても、急にひずみが来て体が動かなくなったりする。
連絡がスムーズに返せない。だって何を言っても間違ってしまうように感じて、頭の中で推敲に推敲を重ねるから時間が掛かるし、大切な連絡はショートケーキのいちごのように取っておきたくなる。
外に出ることがとても難しく感じることがある。それは体がぷるぷる溶けそうな感覚があるからだ。くらげのような体では、歩くことも自転車を漕ぐことも難儀である。
人のあたたかみが好きなのに、人とつながりを持つことに強いプレッシャーを感じる。「社会課題解決」な仕事をするうえで、人とのつながりは命綱のようなものなんだけど、つながるのが苦手だし、よく間違える。
傷つきやすい。でも、この傷つきやすさを失ったら、いろんなものが見えなくなる気もする。

きっと、でもあなた「ふつう」のこともできてるじゃん、と私に対して思う人もいるだろう。
まあ何が「ふつう」で「ふつうでない」かも問うこと自体が茶番のような気もするけれど、人間はだいたい「ふつう」か「ふつうでないか」で悩んでいる。

私はこういう悩みを「不調」とか「持病」という言葉で説明してきたけれど、その先にあるのは「治る」ことで。
でも、「不調」が訪れるたびに「これはいつ治るんだ」と悲しい気持ちになる。
本当は週5日営業したいんだけど、「不調」という看板を出して休んで、またいつか「ふつう」の看板を出して週5日営業できるように頑張っている。
いや、これにはもう限界があるのだろう、と最近思う。10年以上こういう頑張り方をしていて、もう疲れたし、そういう頑張りを続けるほど人生は長くない。

昔、実家の近所に週2日くらいしか営業しないカレー屋さんがあった。しかも、営業カレンダーには「熱を出したりして休むこともあるかもしれません」と丁寧に書いてあった。
私も実は週2日営業のカレー屋さんなのかもしれない。
本当は週5日営業したい。朝から晩までカレーを出したい。
だけど週2日、もしくは週4日2時間ずつくらいしか営業できない。
「なぜかそういうふうに生まれて、それは選ぶことも咎めることもできない」。
「不調」なのではなく、最初からそういう私であったのかもしれない。

そういう私であった、と気づいた先にあるのは、そのままの私でどう生きられるのかという課題である。
色々な切実さがある。経済的なこと、社会的なこと、、、。
その切実さから目をそらさずに、「あなたはそのままのあなたとして生きていける」と言えるように。一時でもいいから、あなたがそういうふうに思えるように、私は場と言葉を紡いでいきたい。


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