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「あいつとはもうだいぶ前からうまく言ってなかったんだ」

言いながら彼は煙草を灰皿におし付ける。

「別れるよ、お前がそう望むなら」


私が黙っていると彼は様子を伺うみたいに私の顔を覗き込んで来る。

私はニッコリほほ笑んで何かを喋ろうとする唇にキスをして彼の言葉を封じてしまう。

別に。もう。どうだって良いのよ。そんな事は。もう私は決めてしまっているから。
彼とは今日で終わりにする。と。

彼は本気で奥さんと別れるつもりなのかもしれない。
私のために?

その言葉に嘘がなかったとしても、行動の伴わない言葉だけの誠意なんて自分をうさん臭い人間にみせるだけだって教えてあげた方がいいのかしら。
彼が別れようが別れまいが。
別にどっちだっていーのよ。今更。もう。全部手遅れだから。


彼の腕の中感じるぬくもりを愛しくも思うけど、それはこのぬくもりを得られるのが今日で最後だと分かっているから、昔私の中にあった強い思いの残骸を懐かしんでるだけにすぎない、このぬくもり無しでは生きていけない、そんな強い執着はもう私の中には残っていなかった。

彼はいつものようにゆっくりと、やさしく私を抱き締める。
彼との最後の共同作業。そう。これは愛情の介在しない単なる作業にすぎない。私なりのお別れの儀式。


しばらく動いたあとで、限界を迎えた彼がせつなげに私の名前を呼んだ。

あぁ。私は私の名前を呼ぶ彼の声がとても好きだったのかもしれない。ぼんやりした意識のなかそんな事を思った。

彼を愛していた時は彼のどこをこんなにも愛しているのか分からなかったくせに、愛情が冷めてそれに気付くだなんて皮肉な話だ。


彼の腕枕に抱かれて気怠げに天井を見上げる

「ね。私の名前呼んで?」

天井を見上げながら私は彼にお願いする


「なんだよいきなり」


「ね。お願い」


「どうしたんだよ。今日はお前ちょっとおかしいぞ」


一緒に天井を見上げていた彼が私の方に向き直る。
私は涙を見られたくなくて彼の胸に顔をうずめた。

「おい。どうしたんだよ。ないてんのか?」


頭の上でひどく動揺した彼の声が優しく私の名前を呼びかける。

私の名前を呼ぶ彼の声が私はとてもとても好きだったのだ。

彼の胸の中で子供みたいに泣きじゃくりながら私は思う。

本当に。
本当に大好きだったのだ。と。


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