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「親子かめはめ波」は好きだけど「元気玉やフュージョン」は嫌い 【空想したもの】

タイトルの通りです。
私は『ドラゴンボール』の「元気玉」と「フュージョン」が嫌いです。
劇場版などで連発されるたびに、幼心にあーはいはいと冷めていました。

そのように感じていたことには、以下の2つの理由があります。

① 悟空はいつも1人の力で戦いたがっているのに「フュージョン」は嫌で「元気玉」を使っているのは違いがわからず、信念と行動がぶれているように感じてしまう

② 一対一の戦場で他人の力を借りて勝利することに納得感を感じない(相手の予測を外すために不意打ちや連携をするのなら納得できる)

これら2つについて少し考えてみたいと思います。


① 悟空はなぜ「フュージョン」は嫌で「元気玉」を使うのか


ドラゴンボール世界のエネルギーってなに?

まず、「元気玉」と「フュージョン」について振り返ってみます。

・元気玉:「草、木、人間、動物など周囲のあらゆる生物、物や大気、太陽などがもつ、あらゆるエネルギーを集め攻撃エネルギーに変えて放つエネルギー弾。」(Wikipediaより引用 2023年7月25日時点)

・フュージョン:「気や体形などが近い二人が、同じ動きを対称に行い、最後に指先を合わせることにより融合する術。」(Wikipediaより引用 2023年7月25日時点)

まず、この文を見たときに感じたのは、「ここで言われてるエネルギーってなに?」という疑問です。
おそらく、ここでいうエネルギーは「お金」や「電気のような性質をもった何か」と解釈すれば、ある程度納得できるものかなと思っています。
以前ネットで言われていましたが、「元気玉はクラウドファンディングだ」みたいな話ですね。(若者向けの詐欺師が使いそうなフレーズですね
それに倣うなら「フュージョンは企業合併だ」ですかね。

ただどうにも資本主義的な、一つの軸における譲渡や代替が可能で等質的な数字の大小の話に帰着するので、ちょっと納得したくないんですよね。
個人の戦闘力の大小は才能と努力と環境によって培われるもので、その大きさはドラゴンボール世界では数値で評価可能かもしれませんが、他人に譲渡可能なものではないはずです。
あと、殆どずっと個人の戦闘力の大小というシンプルなルールが戦局を支配していたのに、突然他人の力を借りられたり、他人と合体できたりしてもルールや前提があいまいなままひっくり返された感じがして、いまいち盛り上がれないです。
ゴチャゴチャ書きましたが、とにかく「エネルギーと戦闘力の概念があやふやでよくわからん!」ということです。

また、悟空やベジータは「フュージョンやポタラは嫌いだ。自分の力で戦いたい。」と言っていますが、じゃあ元気玉は?回復アイテムは?とつい思ってしまいます。

悟空は「鍛えた自分固有の戦闘能力」が自分にとって大事で他人と混ぜたくないものだと思っていて、「気、エネルギー」を借りて勝つこと自体には特に疑問を感じていないのかもしれません。
むしろ、仙豆やデンデ、カプセル型のメディカルマシーンによる効率的な回復はこまめに行っているのを見るに、彼らは「気、エネルギー」に対しては合理的に考えているようです。
「オラは自然に飯食って寝て滋養したオラ固有のオーガニックな気でしか戦いたくねぇ!」とは言わなさそうです。

このことからも、「鍛えた自分固有の戦闘能力」と「活動のために必要なエネルギー」を「気」とか「エネルギー」と呼んであやふやに捉えているせいで、ややこしくなっているのではないかと想像しています。

気と戦闘力の捉え方について個人的解釈のまとめ

さて、悟空がフュージョンと元気玉をどう捉えているのかについて、想像でまとめてみたいと思います。
だいぶテキトーな想像なので、多分漫画の描写と齟齬がいくつも生じてると思います。
ご意見があればお教えいただけると幸いです。

ドラゴンボールにおける気と戦闘力(個人的な想像)

つええやつの判断基準 = 「固有の戦闘能力」×「気」の容量の大きさ × 「気」のコントロールのうまさ

・「固有の戦闘能力」:潜在的な技能や特性やセンス、肉体を変化させることで大きく変化する。(界王拳、フリーザの変身、合体など)
サイヤ人たちは主にこれにプライドを持っている?

・「気、エネルギー」:かめはめ波などの技で消費される、自在に出力を調節できる、スカウターなどで測定可能。
ただし、登場キャラクター達が誰の気かを察知している描写や善悪の気についての描写から、気には個人を特定できる何か固有の特性が反映されているように思われる。

「気」そのものは万物に存在する一般的なエネルギーでしかなく(元気玉ではこれを集めて善の気にして放っている?)、それが個人の中(肉体というより魂?)に入ることでその個人の特性を反映するようになっている?(下図参照)

ドラゴンボールにおける悟空達の考え方?(個人的な想像)

・フュージョン、ポタラによる合体 ⇒ 生まれつきのセンスや修行で鍛えた「固有の戦闘能力」の合成だから好まない、サイヤ人のプライドに障る 

・元気玉、機械または他人による回復 ⇒ 「気、エネルギー」の譲渡だから特に気にしない、むしろ合理的に効率よく使いたい


② 一対一の戦場で他人の力を借りて勝つことへの納得感の無さ


一対一の戦場で他人の力を借りる展開が好きじゃない超個人的な意見

私としては、エネルギー(気)も戦闘力も全て力の一部だろと感じるので、どちらであろうと実際に他人の力を借りている時点でそんなに好きにはなれません。
一対一の戦場で他人の力を借りることって盛り上がるんでしょうか。

一対一の戦場では「他人の力を借りられない」ので、「ここにはいない他人の力を借りたんだと全身全霊で信じる」ことしかできません。
だから、「親子かめはめ波」には説得力があります。
元々セルの力を上回っていた悟飯が、悟空の存在や思いを信じて全力を出せたから勝てたという現実的な勝利です。
「元気玉やフュージョン」にはそれがありません。
実力で敵わない相手に、他人の力を借りたり他人と一体になったりして一発逆転ということは、現実的に起こりようがないと感じるからです。
たとえ架空のマンガの話であったとしても、私はそこに納得感を感じられたことは一度たりともないです。

一対一で力をぶつけ合わせる戦場という場においては、人の力を集めたところで圧倒的な個同士の戦いには関われないと思うんですよね。
具体的なビジョンの共有なしに人が集まっても、行動や思考のすれ違いで力を打ち消し合ってしまい、勝利という一方向に向くように力を束ねるのは困難ですよね。
(特に『サマーウォーズ』などを見る度に思います。親戚や応援のシーンが心底嫌いです。)

これは他の漫画でもそうです。
私は『弱虫ペダル』という漫画が好きで読んでいるのですが、納得できる勝利とそうでない勝利の差が結構あります。
例えば、「一人がもう一人の背中を押しながらスプリントして勝利」という展開は物理的にも心情的にも全く納得がいっていないです。
これと同じように別漫画の「キャプテン翼」のスカイダイブシュートという、ボールを抱えた一人をチームメイトが数人がかりでゴールに押し込むという技は納得感のない最たる例です。
ゴールを決められるのは一人です。
(イナズマイレブンぐらい振り切ってるくれると納得感があります。)

一方で、「このジャージをチームメイトから託されたから勝つ」や「あの先輩はもうここにはいないが一緒に走っている姿を想像して追いかけて抜く」といった、自分の中にいる他人の存在を心の底から信じて強くなる姿には説得力があり、心打たれるものがあります
現実でも、多くのスポーツ選手が託してくれたチームメイトのために最後のプレーができたとよく言いますよね。


かなり脱線した話

また、一気に話は変わりますが家族を喪失した人も同じです。
私の祖母は祖父が突然亡くなってから喪失感に苛まれ、茫然自失になっていました。
しかし、祖父の好きだった物を食べ、祖父の遺影を持って散歩をし、祖父が観ていたテレビ番組を決まった時間につけ、毎日新しく知ったことを祖父に聞かせることで、祖父が今もいることを信じていました。
そうすることで祖母は何年もかけて、大切な人を失った喪失感を少しずつ受容していったようでした。
私はこの祖母の姿が一見奇妙ではあるものの、他人に依存した不健康な生き方には思えず、むしろ自立した健康的な生き方であるように思いました。

結局のところ、人と共に生きることや人と同じものを共有できているという感覚は幻想なのではないでしょうか。
どこまでいっても自分一人の内側に他者をリアルに想像し、存在させたつもりになることが限界です。
他人の力は最後の瞬間には借りられません。
人はみな、たった一人で孤独に生きて死んでいきます。
しかし、自分の内にいる他人を信じることで、人は自立し強くなれるのではないでしょうか。


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