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真っ赤な空を見ただろうか

毎年夏に鬱になっている。
たまたまかもしれないし気温や熱すぎる太陽がそうさせているのかもしれないし、分からない。
今年もそんな夏だった。

ここ最近はそんな夏の面影なく、秋を知らないまま寒さで服装選択の失敗を繰り返して軽く苛立ち、そんな軽い苛立ちに心を弾ませている。
日没がだんだん早くなり夕暮れが美しく、気付けばスマホを空に向けている。そんな時にBUMP OF CHICKENの『真っ赤な空を見ただろうか』という曲が頭に流れ、この曲が夏のあとの私を掬い上げてくれたことを思い出す。


言葉ばかりに必死になって
やっと幾つか覚えたのに
たった一度の微笑みが
あんなに上手に喋るとは

私はいつだって言葉に必死だ。
辛い出来事も、好きな曲のことだってこうやって。
ただ、言葉が必要なくなる瞬間に立ち会ったこともある。大切な人の笑顔とか言葉の交わせない愛犬の存在とか。逆に言えば大切な人の泣き顔も。
悔しいがその時に、結局文字は心ではないと思い知る。
言葉が必要なくなる瞬間に出た“喋り”がどこまでも本心であったから。
私が紡ぐ、心に似た文字は必死になっても心付近までしか行けない。

それでもまだ言葉を綴ることが必要な時が人生のほとんどを占めているから自分に出来る最大の表現と感性で書く。感じたことを言語化して見せること。
弱さを言語化することの強さが世界の共通認識であれば良いのに。

また言葉のいらない瞬間に立ち会えたらその時また声を出そう。

夕焼け空きれいだと思う心をどうか殺さないで
そんな心馬鹿正直に話すことを馬鹿にしないで

紅葉、雨、反射、真っ赤な空
希死念慮の薄め方はこういう日常の景色に美を感じた時だった。
美しいものを見て美しいと感じられる心を殺してしまいたくないと思う。
でもそれは今私が美容室で髪の毛を染めていただいて完成を楽しみにしているから書ける言葉であって、本当に死にたい時や鬱が来た時の世の中の全てをどうでもよくなってしまう感情にそんな綺麗な言葉は勝てないことも分かっている。
綺麗事ではなく、綺麗な言葉。

ただ今の状態だから書ける。
私がここで文字を綴っていると言うことは、鬱の時でも美しいものを美しいと思えたからだと分かる。

空が綺麗だった時に、真っ先に「空がきれいだな」そう思う人ばかりだと思う。
そう感じた心だけは、
自分自身で殺さない。誰のそれも殺さない。
誰かに話せたらいいな。
歳を重ねて恥ずかしくなることが増えても。

世界のこと、息をする言い訳にしたらいい。
世界が嫌いでも世界に息をもらうしかないから。

その世界が生み出す美しいものはいつだって、
感情のある生命の逃げ場だ。

大切な人に歌いたい
聴こえているのかも解らない
だからせめて続けたい 続ける意味さえ解らない

続ける。
歌を歌うこと じゃなくてもいい。
呼吸になること と 呼吸をすることを意味が見当たらなくても続けてほしい。
そうしてなるべく吸い込みやすい呼吸が続きますように。

また呼吸をやめたくなった時、
空を見上げることが出来ますように。


夕焼け空きれいだと思う心をどうか殺さないで。

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