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サーファーになる
今日、職場のとても尊敬している人にキャリア相談的なことをする機会がありました。
受験やら就活やら、外在的な要因で目標が定まる機会が多かったこれまでと比べて、社会人になるとなんだかこの先のキャリアが開けすぎていて
これからもこれまでと同じようにずっと、自分自身をモチベートし続けていけるのか、新社会人として入ったこの職場で、特にこれを成し遂げたい!みたいな大きな目標もないし、大丈夫かな…と不安に思っていました。
そこでいただいた言葉。雷に打たれた気持ちがしました。
「日本には、人生の目標とか言って、登る山を定めて頑張ることをよしとするマウントクライマー型の人が多すぎだよね。就活でその型が脳内に刷り込まれちゃってるんだろうね。」
「でも別に、山なんてなくたっていいんだと思うよ。ぽっと目の前に現れたやりたいことの波に乗ってバランスを取るような、サーファーになったっていいじゃん。」
「マウントクライマーであろうとする心の中には、自分の人生に関する、誰かに対しての説明責任を勝手に負っちゃってる感じもあると思うんだよね。別に誰に対する責任も負わなくていいと思うよ。」
確かに。登る前から山の形を詳細に言語化して、その山に登るために頑張れる人もいると思う。(=夢を叶える前からその夢を具体的に描くことができて、その夢を叶えるという目標に邁進しながら辿り着くまで努力できる人。)
でも私は、その「山」っていうやつは、登り切るまでは妄想に過ぎなくて、努力して登っていくうちに形さえも変わってきてしまうんじゃないだろうか、それなのになんで、確固たる意志を持ってその妄想の山に登りたいといえるの?そもそも登ってる途中で、登ってること自体が嫌になったらどうする?引き返す?引き返すこともできないくらい帰り道が険しかったら、飛び降りる?みたいなことをうじうじ考えてました。
こんな心境なのに「この山に登りたいです!!」なんて対外的に宣言できるわけないと思っていたし、逆に宣言できて現に頑張れている人は、見切り発車ができる潔さのようなものを持っているのかしら、と内心とてもナイーブな感情を抱いていました。
でもサーファーの話を聞いて、あぁ、別に「この山に登ります!」って宣言する義務なんてどこにもなかったんだ、と気づきました。対外的に宣言した方がやる気になれる人はすればいいけど、少なくとも登りたい山が見つからないことを私が焦る必要なんて、全然ないんだと思いました。
私は人生を、波のようなものだと捉えたいです。どの波に、どのように乗るかは自分次第だから、自分の意志や感性で選ぶこと、波にうまく乗れるようになるために頑張ることも必要。でもきっと人生には、私にはコントロールしきれない側面も絶対ある、波のように。
人生の目標を、山のようにずっとどこかに動かず存在していて、こちらからの一方的な努力で登れるかどうかが決まるものだとは思いたくない。
だからこれからは沖に出ている気持ちで、自分の好きな波を見極めたり、然るべきときに波に乗れるような気概やスキルを備えていられるようにしたい。
たぶん、そうやっていつか私がビッグウェーブに乗ったとき、マウントクライマー的思考型を持っている人からは、私も山の頂上にたどり着いているように見えたりもするのだと思う。
サーフィンはしたことないし、山登りにも詳しくないから、有識者の方はツッコミがあればお待ちしております。