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認めてあげよう

ラジオの相談コーナーで、「自分は客観的に見ても、自分の実感としても幸せな人生を送っているのに、どうしても自分と他人を比べてしまい、他人が自分より恵まれている要素が目については、落ち込んでしまう」
という話があって、すごく共感した。


私は、自分のことは大好きで、自分が持っているものや、自分が生み出すものもわりと好き、自分の欠点も結構受け入れられる。

でもいつもなんだか満たされていない気持ちがあって、人と自分とを比べては、ネガティブな感情になることが多くて。

比べるっていうととても能動的な取り組みに聞こえて、比べるのをやめればいいじゃん!と言われそうだけど、
別に能動的に比べる作業をしているわけじゃなくて、自然に入ってくる情報とか会話の中で察したこととか周囲の行動とかと、自分を比べては、心を削られるみたいなことが多かった。

例えば情報をシャットアウトするためにInstagramをアンインストールしたとして、それは対処療法にしかならなくて、友達と会えばInstagram上の情報なんて自然に入ってくるし、友達と会わないわけにはいかない(し、会いたい)。

だから自分でもどうしたらいいかわからなかった。


この相談に対するラジオパーソナリティの答えは、結構根本的な話にかかわっていた。

「自分自身を認められていない人は、自分の足りないところを挙げてはその証拠を持ってきたりして、いかに自分が今足りてないかを説明しようとする方向に動く」らしい。

これ私だ〜と思った。

そのことを頭で理解できたおかげで、もっと自分を認めてあげられる方向に、一歩だけ進めた気がした。


たぶんだけど、自分を認めることって、「自分のポテンシャルはこんな程度です」と天井を決めてしまうようで、怖かったのだと思う。

でも、これまでそうやって足元をぶらぶらさせて、あちこちの方向に向けて同時に走り出していてもよかったのは、いくらでも将来の可能性や方向性があることを強みとする、学生だったからなのではないかと思う。

だけど多分、これからはある程度軸を決めたら、そこに向かって頑張るという目標を直視しつつ、自分を認め、少しだけ踏ん張ってみることで、大きなことを成し遂げられる局面もあるのだと思う。

ああ、何かを決めるって怖いよね
別にいくつか可能性を残しておいてもいいと思うんだけど、胸を張れる自分の舞台を一つ以上持つために頑張った方がいいのではないかという話。

だから今よりもう少し、一つ一つの選択の重みを感じつつ、そういう決断の末に選んだ日々を懸命に生きる自分を、認めてあげられるようになりたい。

たぶんそうすれば、人のことはあんまり気にならなくなるんだと思う。ああ、ちょっと大人になった気がした。