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2022年の振り返りと 2023年の抱負

今年はちょっと早めに。

2022年の目標振り返り

(1)自分の足で立つ

自分が2021年の終わりに想像していた意味の「自分の足で立つ」という目標は達成できていたと思う。社会人として金銭的な意味はもちろん、精神的にも、他人や何か外部要因があってこそ幸せでいられる、といった状態に陥ることはなかった思う。
でもこれではまだ不十分なところがあって、自分の足で立とうと思うばかりに、大丈夫じゃなくても大丈夫と言ってしまったことがあった。そういう立ち方は持続的ではない。
自分の足で立てるようになるってことは、どこまでいったら自分にとっては負荷がかかりすぎて、助けてもらった方がいいのかを判断できて、実際に助けを求められることかなと思う。
まだ今は、一度助けを求めた後、助けなしで立てなくなってしまうのが怖いのではないかと思う。だからこの部分は次の課題かな。

(2)自分に色をつける

色、けっこうついたんじゃないかな。今年良かったことは、自分は何が好きで、何を大事にしたいのかが前よりもずっとわかった気がしたこと。何色がついてもいいというわけじゃなくて、自分の好きな色をつけたいもんね。
あと、周りに自分の知識や好きなことを語るのがうまい人がいたおかげで、私も見よう見まねで、自分の言葉や話法で発信する、というのが少しずつできるようになってきた気がする。そのおかげで、自分につき始めた色を周りに紹介することがちょっとできたし、それは純粋に嬉しい変化だった。


その他自分におきたプチ変化

●昔は断然お肉派だったけど、気づけば魚介派になっていた。新鮮な魚介を食べに行こう、の方が、美味しいお肉食べよう、よりテンション上がる。お肉は脂と食感(質感?)で楽しむものかもしれないけど、魚介にはそれらはもちろんのこと、香りがあるからね。

●季節を感じることに喜びをおぼえるようになった。今年の夏は人生で一番スイカを食べた夏だったし、秋は家で銀杏を炒って食べたり、大量にいろんな種類のきのこを買ってみたり、ひやおろしを飲んだり、濃いめの色の口紅を塗ったり、紅葉を見たりした。寒くなってきたらおでんを解禁して、銭湯や日帰り温泉旅行デビューも果たした。

●何かを選択することにかかる時間や心労もコストだと気づいた。例えば、いくらたくさんのECサイトを駆使して一番安く良い品質ものを最短で手に入れられたとして、そこまでにかかっている吟味や選択のコストを考えたら、あんまりお得じゃないような気もしてきた。

●とにかく足を動かすことが好きな時代は終わり、知識を頭に入れることそれ自体や、それらインプットをベストなタイミングでアウトプットしたり、活用してより効率的に物事を進めたりすることの楽しさを知った。2週間に1回は必ず週末に図書館に行って、本を借りて読んだ。職場の周りの人は、昼休みだろうと手を休めず働いている人も多いけど、昼休みの時間って働いても給料にはならないじゃん、無賃労働は嫌、と言い聞かせ、周りをシャットアウトしてここぞとばかりに借りた本を読んだ。日々のルーティンの中に読書タイムができたのは大きかった。

たぶん私は、自分自身や自分の周りの環境が変化し続けていることが幸せで、それを何歳になっても確認し続けたいタイプの人間なのだと思った。
(そろそろ年を取るのも嫌になってきたけど、私の敬愛するジェーン・スーも、若いままでいられる人というのは、変化し続けている人だと言っていました。)

2023年の目標

ワガママな自分を発掘する

①他人との関係について
この前ひょんなことから、そういえば物心ついてから、人を困らせるワガママを言ってこなかったな、と気づいた。6歳下に弟がいるからかもしれないけど、私は弟より大きいんだから、ワガママなんて言ったらだめとか、親を困らせたらダメってどこかでずっと思ってた。だから、この子はワガママを言わずに物分かりもいい子、という謎の信頼を置かれたていたと思うし、そういう私に助けられた局面も結構あったんじゃないかと思う。

それが大人になっても尾をひいていて、例えば友情でも恋愛でも、相手に迷惑をかけることが目に見えているお願いはできないし(だから、何も言わないけど手を差し伸べてくれたらいいのに、と無理な願望を持ったりする。助けは呼ばないと来ないのよ)、相手が明らかに興味なさそうな話題を語り出すことはむずかしい。

でもなんか、私はこれまで何度自分の底にある願望やこうしたいという気持ちを押し殺して、周りに迎合する解を自分の願望として表出させてきたんだろう、と思って悲しくなった。

周りに「こうしたい」という確固たる思いを持ってそうな人がいるとき、当然それに従う方向で調整する自分がいて、そんな中で自分の願望を掘り出すことは難しい。自分としてはこうしたいという願望が、もしかしたらあるのかもしれないけど、どこかへ綺麗に隠れてしまう。

本当にどうでもいい時というのももちろんあると思うけど、もし自分がもう一人いて、もう一人の自分に話しかけるのだとしたらこういう話がしたいだろうなとか、自分一人で決めていいのであればこれを選ぶだろうなとかっていうのがある場合も、多いんだと思う。

小さいことであれ決断に時間がかかるタイプの人間だから、その長い思考プロセスに他人を巻き込んでは申し訳ない、という気持ちもあるのだろうけど、もっとワガママな自分をサッと表出させられるようになりたい。


②自分の価値観について
①では他人との関係性における「ワガママ」を書いたけど、多分自分の中にも「ワガママ」を阻む要素はある。それは何かというと、「満たされすぎてはいけない」とか「がまんは美徳」という変な価値観。

私の母は、例えば彼女自身が友達とランチに行って帰ってきたとして、「どうだった?」と聞いても、「すごく楽しかった!!!」とは言わない人。彼女が何か新しいアクセサリーか何かを買ったとして、「いいなあ。」と言っても、「これは必要だったし安物だったのよ」と言う人。
どこかで満たされちゃいけない、という気持ちがあるのだろうか、と思う。

私はというと、全く同じようには受け継いでいなくて、楽しかったことは必要以上に周りに楽しかったと言いまくるし、最近買ったお気に入りのものは見せまくる性格だけど、たぶん「満たされすぎてはいけない」「がまんは美徳」という価値観はしっかりある。

例えば今日はモンブランが食べたいな、と思ったとして、700円くらいのデパ地下で売ってるやつを買うか、400円くらいのコンビニのを買う、という選択肢が出てくるとする。その時、700円の方が美味しいと知っていて、どんなにそちらの方を食べたい!と心が叫んでいたとしても、私は大抵そちらを買うことができない。なぜなら、400円の方も結構美味しいことを知っているし、こっちで十分満足だよね、と自分に言い聞かせることができる自信もあるし、そうやって300円を浮かせることや、そういった「ちりつも」を繰り返すことをどこかで「えらい」と思っている自分がいるから。冷静に考えると、なんでそれがえらいの??300円で?とは思ってる。(ちなみにこういう節制の気持ちは他人には適用されず、友達にあげるものとかは、当たり前に一番いいものをあげたい。あくまで自分自身へのご褒美的なものには妥協してしまうという話。)

上で書いたのは極端な例だけど、心の中に欲望やこうしたいなあという希望が現れた時は、それをしずめる「お姉さん的自分」がいつもやってきて、お姉さんっぷりを発揮しては色々頭を使って考えた正論が展開されちゃって、そうかあ、と健気に納得して、当初の願望がどっかに消えてしまう。そうやってずっとがまんしてきたから、少しは妥協することが当たり前になっているし、自分が自分のことを100%満たしてあげる図はちょっと想像できない。

でも、自分で自分をがまんさせるようなことはもうやめたい。自分のワガママを聞いて、100%、いや120%満たしてあげたい。ありがたいことに周りの人にはたくさん心を満たしてもらっているけど、自分でも自分にもっと優しくしてあげたい。たぶんこれができるようになったら、自分のことをもっと好きになれると思う。

おまけ

今年気に入った街ベスト3
1、綾瀬
2、王子
3、京成立石

今年の本ベスト3
1、マネーロンダリング(橘玲)
2、国家の罠(佐藤優)
3、女性解放という思想(江原由美子)

今年のドラマベスト3
1、理性的な人生
2、令嬢アンナの真実
3、我的前半生



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