国家公務員になる理由

私はかつて「国家公務員を目指さない理由」というnoteを書きました。

それから半年余りが過ぎ、国家公務員になる意思決定を最終的に下そうとしている今、最後に気持ちを整理しておきます。


2020年1月、まだ私が留学をしていた頃、国家公務員という進路の選択肢を消そうとした時がありました。これを①の時期とします。

そしてその1年後、やはり国家公務員になりたい、と思い専門区分の予備校に申し込む前、①の思考に自分自身で反駁をしました。これを②の時期とします。


これら①②の思考に対して、官庁訪問を終え、国家公務員として働くことが一番リアルになった今、思うことを述べます。


〜〜〜〜〜


<社会貢献という軸について>

①社会のために「良い」こと、というのは幻想
→誰々のために「良い」というのは存在するが、万人のために良いものなどは存在しない。しかも、自分は善人ではない。自分は、基本的には利益や見返りがないと動けない人間である。官僚になるとして、見えない誰かのために全力で奉仕するというよりは、自分の生きる意味を肯定するために必死で働くという感じになる。そんな動機の人が公務員になっていいのか。

②官僚は善人の仕事でも良いことをするための仕事でもない。その人がもっとも価値提供したい先がたまたま国やその省庁だったというだけで、価値提供の対象や職業に貴賎はない、という気持ちを忘れてはいけないと思う。もし官僚の中に、国のために働いているなんて自分はえらい、と思っている人がいるとすれば、それは単なる自惚れにすぎない。

→この感覚一生忘れたくないです。自分で好きで選んでいる仕事なのであって、別に誰から頼まれたわけでもないんだよね。使命感を持ってやるのはいいけど、私みんなのために頑張ってます、みたいな風を吹かせたくなる日が来たら私はおしまいだと思う。


①官僚にならないと、社会貢献ができないわけではない。
官僚になるということは、数ある選択肢の一つに過ぎない。

②これ、特に最近半沢直樹を見ててもめっちゃ思う。社会貢献というのはどこでもできるし、どこでもできないと思う。
多分もっと大事なのは、自分が価値を提供する対象に、どれだけ強い思いや意志を持てるかどうか。(愛するということ、より。)
今のところ、そして多分これからも、国という対象に対する思いが一番強いものでありそう。

→社会貢献という言葉のマジックワード的性格についてはもちろん認識するとして、政府系機関との比較で、「公共性」という言葉の多義性にも気づいた。
政府系機関は部分最適というか、案件を進めていく時の軸に「公共性」というものがあるのだけれど、でもそれは全体(日本国)にとっての最適として整合性が取れるものでは必ずしもないと感じた。そこに違和感を感じてしまうあたり、やはり自分は国で働く方が納得感を持てるのだと思いました。


<キャリア・出世について>

①大学に入る前は、自己成長だけがモチベーションだった。昔の自分は、自己成長の先に必ずしも社会貢献を想定していたわけではなくて、海外で働くとか、余暇にはショッピングをするとか、そういういわゆる「成功」をぼんやりと描いていたに過ぎなかった。そんな自分にとって官僚という選択肢は微妙なのではないか。

②でもだからと言ってマーケティングとかを極めてかっこいい仕事したいかって言われると別にそうじゃない。グローバルな分野(金融とか環境とか貿易とか)を扱う省庁にいきたい。

→やっぱり自分が思い描くかっこいい仕事っていうのは、国際的な場で「日本国」を背負って利益を代表している姿な気がする。いつかやってみたい。


①入って一年目や二年目とか、特に成長しなそう

②成長、の手段目的化が激しかった。選択を先延ばしにしたい人ほど、成長したいっていうのかもな〜

→なんのための成長か。目的のない成長なんて空虚。せっかくこの省庁に興味を持てたのなら、そこで頑張ることが私にとっての「成長」への近道だと思えています。

①官僚は、極端に言えば、「事務次官になるための出世競争組織」である
→総合職で採用された時点で、キャリアを積みながら、いずれは重要な意思決定に関わる重要なポストにつくことが想定されている。自分は出世をしたいわけではないし、なんならずっと霞ヶ関に残りたいわけでもない。でも出世競争の中に置かれたら、出世したいという競争心が働いてしまう気もするし、逆に言えば出世(=より重要なポストにつく)を望み必死に働く人たちとの温度差が生まれるのも違うのではないか。

→むしろこの省庁でなら、出世をしたいと思えた。日本の行政の質を上げるためには、外務省以外にも国際的な視野を持った職員が増えることが絶対に必要だし、なるべく意思決定に携われるポストについてみたい。


<女性としての働き方について>

①霞が関は女性の職場ではない
→上で書いたように、基本的にはキャリアを積み、重要なポストにつくことが想定される総合職では、体力的にも、結婚出産を考えた時にも、やむを得ず女性は蚊帳の外に置かれることが多そう。例えば外務省だったら、本省ではなくて海外の大使館派遣になるといったように。

②かつて至極受け身で、今の環境を見てどうとか判断していたのは、あまりにも視座が低かったと反省した。むしろ、女性でも管理職になって組織を作る側に回れるのだと証明できたら、素敵だと思った。女性であることは、今の時代においては追い風なのでは、と思う。

→この省庁でなら、ロールモデル的な霞が関の女性の働き方が作れると思った。しかもこの省庁自身がそれを強く望んでいることもわかりました。それを自ら体現することで、他の省庁を牽引していく一員になりたいと思いました。


<政策決定プロセスについて>

①政策決定のシステムと、官僚組織の非効率性は結構オワっている
→立案から立法の流れが、とても効率が悪そう。効率が悪い組織だから優秀な人の芽を摘んでしまうっていうのは、どうやらほんとうらしい。

②これも、現状の組織の状況に対するマイナス感情でしかなかった。むしろ変えていくくらいに思える場所の方が、モチベーション高く働けるのではないかと思う。

→政策決定のプロセスが非効率的なのは、それだけ難しくて複雑で関係者が多いというのもあって、ある程度仕方のないことなのかなと思った。

制度自体見直す余地があるところは、その問題意識を共有する人がいるはずだから、提言すればいい。変えていかなければならない。さらに、政策決定プロセスが非効率的だからと言って、じゃあそこに優秀な人がいくべきではない、ということにはならない。そんなことをしていたら、いつまでも変わらない。


①官僚は数ある利益団体や組織にかなり左右される
→意思決定は官僚だけでできるわけではない。経済界、国会議員、また省庁内部の派閥などによっても、政策決定には必ず利害関係が絡む。政策を履行するというのは、つまり諸勢力の妥協点を見つけることに他ならならず、これこそ官僚の仕事なのではないか。

②それはそう。でも、国という立場を取る人もいなければ、民間企業の思う通りになってしまうこともある。やはり木を見て森もみる存在が絶対に必要。

→諸勢力の妥協点を見つける立場にあれること(実態はともあれそれを理想及び本来の役割とできること)が官僚の魅力だと思うし、これぞやってみたいと思うようになった。

<一緒に働く人たち>

①地頭がいい人、一緒に働いていて尊敬できる人、社会のために汗を流したいと思っている人たちに囲まれて仕事がしたいなあ。

②これは頭の良さを何に対して発揮している人がいいかという問題だと思った。民間企業のようにいかにお金を稼ぐか、というよりは、日本の未来をどう作っていくかとか、今ある負をどう正に変えていくか、その人自身を含め人の人生をどのように豊かにしていくか、というところに頭をうまく使える人にしか憧れないことに気づいた

→②で言っていたこともあんまり中身がなかったなと思いました。
今は結局、自分と似ている人が多い組織がいいのかなと思っています。


私の志望する省庁の職員の方について尊敬している点は、バランス感覚がものすごいことです。

何に対してもメリットデメリットを見いだすところが自分の志向性と似ているし、社会を至極客観的に捉えて、希望は持ちながらも楽観的になりすぎず、常に前提を疑い、自らの役割を変化させ続ける気概を持っているところがいいなと思った。
これらを全て兼ね備えている職員の人がたくさんいる職場は、同じ公的機関でも他にないと思います。


〜〜〜〜〜〜〜

そんなわけで、今までのいろんな思考を振り返ってみて、過去の自分に背中を押された感じがします。

今の私に見えているものは一部に過ぎないし、後から考えたら理想主義的すぎて笑っちゃうとこもたくさんあると思う。

でもこれからもたまにこのnoteを読み返して、原点に立ち返ることって大事な気がしました。おしまい。