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そんな大人になりたかったわけじゃない

高校生の時に憧れた先輩がいた。
同じ高校の人ではなかったけど、勉強、詰め込み、部活、という当時の私のような生き方じゃなくて、底なしの自己効力感と謙虚さと広い世界を持った人だった。

幸いその人と同じ大学に入れたものの、在学中に交わることはなく、なんとなくSNSで動向を知るくらいだった。

この前なんとなくインスタグラムのタイムラインをスクロールしていたら、不意に、その人の投稿とともにその人が自分で作ったという音楽が流れてきた。

聴き入ってしまった。

SNSに費やす時間がいかに無為に消えるかは日々実感しつつ、こういうことがあるからやっぱりやめられない。

その人の音楽自体というよりは、その人が音楽をやっているということに感動した。


私は最近、職場環境に嫌気がさしている。

穿った見方がすぎるかもしれないけど、誰の役に立っているかもわからない仕事をして、それを成し遂げたという事実だけで満足そうにしている人たち。
どんなポストを経験したか、誰と知り合いになってコネを作ったか、どこの大学院に行ったか、どんな出向をしたか、それ履歴書や会話のネタ帳に並べ立てて誇示する人たち。

もちろんそんな人ばかりではないけれど、
私からすれば、どうでもいい、薄っぺらいことに価値を見出している人が多いように見える時がある。そういうコミュニティにいて、周りが達成していることとかを横目に内心焦る気持ちがある自分は、他人を薄っぺらいなあと思いつつもそれに影響されているということで、もっと嫌いだ。

私は、真に自分が価値を見出せる何かは成し遂げたいけど、世間的にすごいとされている何かをやり遂げる役を演じたいわけではない。他人になんと褒められようが、自分の充足感や豊かさにつながらないものを得るための努力はしたくない。はずだった。
こと人間関係においては、肩書きや利害関係を全て取っ払ってもなお必要とし必要とされる関係が欲しいのではなかったっけ。毎日を生きるのに必死でここのところすっかり忘れていたけど、こういう志向性は小学1年生の時から萌芽が見られていた気がする。

私が小学校1年生の時、クラスによくやってきては1年生たちを相手にお世話をしてくれる6年生の女子生徒がいた。同級生の女の子たちはみんなその6年生女子の周りに集まって、紙にたまごっちの絵を上手に描いてもらったり、髪の毛のアレンジをしてもらったりしてはその6年生女子を慕っていた。私はというと、同級生みんなが6年生女子に群がる様子を遠巻きに見て、さらに同級生がその6年生女子にしてもらったことの内容を周りに触れ回るのを見て、なんだか苦い気持ちになっていた気がする。圧倒的に年上で能力に差がある人に媚びて、その対価として何か施しを受けるというのが、幼いながら自分をおとしめる行動のような気がしていやだった。(これに関しては、考えすぎだし、意地張らずにお願いすればよかったのにね、とは思う)


ちょっと脱線してしまったけど、何が言いたいかというと、
タイムラインに現れた憧れの先輩が熱中しているという、自分で嗜む音楽というのは、そういうものと対極にある気がしたということ。

自分による自分だけのための音楽は、お金にも名声にも、なんにもならない。
誰のためにやっているわけでもないから、私がこうして心動かされたということも、その人は知る由もないはず。

でも、そういう、自分のためだけの、純粋な自己表現や自己実現のための時間って、私にはあったかな。

いつの間にか、人生の大半が仕事で占められて、そこで認められる成果や達成を全ての生きがいにするような将来が見えてきていた。
仕事ももちろん楽しい方がいいけど、私が輝く舞台が一つしかないというのはいやだ。顔の見えない近くの誰かに認められることでしか幸せを実感できないのは嫌だ。私がなりたかった大人は、そんな他律的な幸せばかり追い求める大人じゃない。もっと自分で自分の価値や自分を豊かにする方法を定義し、それに打ち込む大人だった気がする。


これを親しい友達に話したら、たぶん私は全体的に見て満たされているのだと言われた。

ある程度不自由なく順当にやれているし、他者からの承認もそこそこ得られているから、次は何より自分に認められたいフェーズなのだと。

そうかもしれない。そういう、自分自身の幸せを追求するための基盤があることはとても恵まれていると思う。でも、これまでちゃんとその基盤を活かせていたかというと、全くそんなことはない。


人は環境によって変わる。今の私の環境では、幸せの形はどうやったって他律的になりやすい。この環境にいて、自律的な幸せについて考え始められたことは奇跡に近いと思う。ありがとう、音楽。

ちゃんとこれを機に、どんな大人になりたかっただろう、というのを価値や生き方レベルで考えようと思った。


P.S.
考えるな、感じろ
という言葉があるけど、私はものを考えることができるようになってから感じたい
という言葉を読んだ。
深く共感した。