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そもそも私は星野源ではない

私がエッセイに書くことは、いつも何かがうまく行かないとか、出来ないとか、失敗したとかいう話ばかりだ。

経費精算がうまく出来ないとか、従兄の子供相手に人見知りしたとか――。

なにかを演出したかったわけではないが、テーマやモチーフは、気づけばそのようなものばかりになっていた。


私は、世のなにかに物申したいわけではなかった。

反対に、中立を気取って何らかの社会問題を解説したいわけでもなかった。

また、自分を「強く」見せるための自慢話をしたいわけでもなかった。

だから、現状の「風味」について、「どうしてこうなったのか」という類の後悔を私自身していない。

しかし、これについて最近、私自身も「ちょっと失敗したかな」と今更ながら思っている。


私が冒頭に並べたテーマの種類は、言わば「打ち明け話」でこそ求められるものなのだろう。

つまり、「あのさ、俺じつは」みたいな言葉から始められる類の――。

「あのさ、俺じつはお化けとか苦手で……」みたいな感じの――。


この「打ち明け話」が魅力的であるためには、先んじてその人に、その話と真逆のイメージがなければならない。

たとえば先述した「お化けとか苦手」という話は、普段から小柄でビクビクしている人がするのと屈強なラガーマンがするのとでは、受ける印象がだいぶ違う。これらのうち、どちらが話としてより魅力的かは言うまでもない。

私が私自身のエッセイのテーマについて懸念するのは、それが上述のうち前者に該当しているのではないか、ということである。

これには、あまりにも自明であるが故に忘れていたことが関わっている。

すなわち、そもそも私は星野源ではない、ということだ。


星野源に『そして生活はつづく』というエッセイ本がある。

その中で彼は、自身の生活力のなさについて書いている。

生活全般のことをきちんとするのが苦手である、と。

携帯料金の支払いを忘れてしまうとか。

部屋が荒れ放題であるとか。

そして、生活をちゃんとするための手段――引き落としにするとか――についても、手続きをちゃんと終えられないのでうまくできない、とか。


星野源は今や俳優業と音楽業で第一線を走るスーパースターである。

『そして生活はつづく』刊行時の2009年とは、状況も大きく異なっている。

それでも当時から、彼はそれらの両方で実績を積み上げている人であった。

そんな人が、じつは生活全般が苦手なのだという。

まさしく先述の「真逆のイメージ」すなわちギャップである。

だからこそ、彼の「できなさ」はチャーミングであった。

そのチャーミングさがあってこそ、彼の優しさは読者に響いた。


さて、翻って私である。

私は、そういった「できなさ」を度々テーマに選ぶ。

しかし、そういったテーマを選びがちであるが故に、誰も私に対して「ちゃんとした私」のイメージを持っていないのである。

普段の文章から透けて見える私のイメージが「できない」人である――。

そもそも「できる」人であれば――こんなテーマを選ばない――社会問題への問題提起とか、仕事術とかの有用的で伸びやすい記事を書く――。

「ちゃんとした私」のイメージを持てない理由はいくらでも思いつく。

スーパースターであるならまだしも、そうでない私には「日常とか生活のあれこれには悩んでいなさそう」というイメージは、勝手にはつかない。


故に、私の「エッセイ」は「チャーミング」になりづらい。

そこにいるのは、ちょっと抜けていて可愛げのある星野源ではないのだ。

給付金申請をギリギリまで忘れ、頻繁に傘を置き忘れ、飲み会で話題に困りあくせくする、ただのヤバい成人男性なのである。


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