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やれないだろう脳内会議

『やれたかも委員会』という漫画がある。

男性が面接会場のような場所を訪れ、あのとき女性とセックスできた(やれた)かもしれないという思い出を語る。それを、男性2人女性1人計3人の委員会メンバーが「やれた」「やれたとは言えない」と判定する。

おおむねそんなフォーマットの漫画だ。


ラノベ主人公という言葉がある。

ヒロインたちから好かれ、しかしその好意に対して極めて鈍感な、ラノベにありがちな主人公を指す言葉だ。

その鈍感さはしばしば揶揄の対象になる。

しかし私は、最近ラノベを読んでいて、ふと思ったのだ。

その鈍感さは「やれたかも」とは真逆の精神性のせいではないか、と。


ラノベでは、主人公がヒロインたちから好意を向けられる。

そのさまを、読者はメタ的に観察する。

主人公は読者の感情移入先であり、ヒロインはもちろん魅力的だ。

それは快楽的な読書体験につながる。

ああ、あんな可愛い女の子に好かれたら――!

だが当の主人公は――だからこその鈍感なのだが――その好意に気づかない。

では、どうして彼は気づかないのだろう?


主人公はそもそも自分に好意が向けられるなど夢にも思っていないのだ。

それ故に彼は好意を感知できない。

これを私は「やれないだろう脳内会議」と呼びたい。


「やれたかも」への風当たりは今後より強くなるのだろう。

そんな些末なことで、勝手に性の対象にしないで欲しい、と。

手が重なったくらいで、2人で飲んだぐらいで、エトセトラ。


私はここで、「男はそういう生き物なんだ」とか「男心を分かってよ」などと、擁護したり懇願したりしたいわけではない。

ただ思うのだ。

とはいえ「やれないだろう」まで行き着いた卑屈さは損だろう、と。

「モテ」というフィールドにおいても、人生それ自体においても。

そんなことを思うのも、私もまた「やれないだろう」の一員だからだ。


ラノベ主人公はモテる。

作者という神によってそのように設計されているからだ。

彼の「やれないだろう」も、もちろん神の設計の賜物である。

もっと言えば、それは作劇上必要なのだ。

恋が成就したら、ラブコメは完結せざるを得ないから。

彼の「モテ」と「やれないだろう」は、共犯関係にある。


一方で、残念ながら私(たち)はラノベ主人公ではない。

私の「やれないだろう」は、ただ「やれないだろう」として存在する。

それが神の恩寵を運ぶことはない。


卑屈さは嫌われる。

示した好意をその卑屈さ故に無碍にされるのだ。良い気はするまい。

そのことを、私も頭では了解している。

しかし、褒められても、何かされても、裏があると訝ってしまう。

ポジティブな言葉を、すぐにネガティブな言葉に転じて受け止めてしまう。


「やれたかも」と言えるほど尊大にはなりたくはない。

けれど「やれないだろう」ばかりでもいけないのだろう。

私はちょうどいいところを探している。

「やれたかも」と「やれないだろう」の狭間で。


【今回の一曲】

やなぎなぎ/ユキトキ(2013年)


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