見出し画像

顔を覚えるのが苦手な私と石森の話

今年の夏の真っ盛りに会社で研修があった。

グループ各社から年次もバラバラな若手社員が集められ、あらかじめ組まれたチームごとにワークを進めるタイプのものだった。

私の同期の石森と祢宜田は同じチームに割り振られていた。


始めにチーム内での自己紹介があった。

それぞれ所属と名前、あとは少し何かを喋る、よくある感じのやつだ。

祢宜田の証言によれば、石森は彼の自己紹介を聞いて、「あ、祢宜田って人、私の同期にもいます」と言ったということだった。


石森は人の顔と名前を覚えないことで有名だった。

だからそれを聞いたとき、さもありなんと思ったのは事実である。

祢宜田はグループ内の別会社所属であり、日頃関わる機会は少ないからだ。

しかし一方で、理解が出来ない、という気持ちもあった。


人の顔と名前を覚えるのが苦手な人はいる。

私だってそうだ。

しかし「祢宜田」である。無論これは仮名だが、本当の彼の苗字も同じぐらい珍しい。会社で二人も揃うことはまずありえない。

ならば何故石森は、記憶の中の祢宜田Aと目の前の祢宜田Bが同一人物だとは露ほども疑わず、「同期にもいます」と言ってしまえたのだろうか。

どうして、覚えるのが苦手という自分の特性を踏まえ、冷静に一呼吸置けなかったのだろうか。


私が石森のことで理解できないことは他にもある。

WEBページを見て手当たりしだいにボタンを押せること。

初めて見る名前のカクテルをノリで頼めること。

エトセトラ。


私はここで、それらを非難したいわけではない。

ただ疑問なのだ。どうしてそうなるのか、と。

何故なら、それらは私にはできないことだからだ。


石森の行動には、自分が間違っているかも、とか、ミスしているかも、といった躊躇いみたいなものが一切見えない。

たとえば私は、街で変な人に話しかけられたとき、思わず立ち止まってしまう。

人の顔を覚えるのが苦手なせいで、その人に見覚えがなくても、覚えていないだけで知り合いかもしれない、無視されたと気分を害すかもしれないと思ってしまうからだ。

そしてその人はしばしば宗教の勧誘だったり、何かの勧誘員だったりする。

そんなとき石森なら「誰? 知らん」と思い、そのまま立ち去れるのだろう。


私は常に不安なのだ。

自分は間違えるに違いなく、それは致命傷になりうる、と思ってしまう。

しかし石森は、そんな不安とは無縁そうな顔で日々過ごしている。

それどころか、まあ何とかなるだろう、という自信すら漂わせているのだ。

少なくとも私にはそう映る。


これは個性の話であって、良い悪いというものではないのだろう。

けれどそのエピソードを聞いたとき、祢宜田には悪いが、私は石森のことを心底羨ましいと思ってしまった。

私は石森にはなれない。

今から同じように振る舞ってみせたところで、それはただの猿真似に過ぎない。

石森のオリジナリティに、私はきっと敵わない。


【今回の一曲】

KANA-BOON/ないものねだり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?