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ストレスを晴らす趣味についての自己問答

私の趣味は少ない。

私は決して活動的な人間でもないし、かといって、自宅に籠もったまま充実した時間を過ごせるタイプでもない。

だから休日はいつも、無目的に家を出て、電車に乗ってふらっとどこかに行って、その移動中に本を読んで――そんな具合だった。


あれは大学受験浪人の年だったかと思う。

どうにも体調がすぐれない日々が続き、幾度も同じ病院にかかっていた。

典型的な風邪症状だった。

だから、処方された風邪薬を飲むことで、それは緩和されていた。

しかし、少しするとまた同じ状態になるのだった。

「状況証拠」から、原因は予備校の利きすぎる冷房による冷えまたはストレスだろうと診断された。

その際に私は「お前、趣味はあるか?」と訊ねられたのだった。それは、医師としての質問であると同時に、親戚としての――実際に彼は親戚だった――質問でもあった。

「読書ぐらいですかね」などと答えると、彼は「もっと趣味を持て」を言ったのだった。


しかし、私は努めて趣味を増やすタイプの人間ではなかった。

医師からの忠告も虚しく、私の趣味は今も少ない。

読書と音楽鑑賞、それに演劇鑑賞だの映画鑑賞だのだろうか。


私見だが、これらが趣味であることには欠点が二つある。

まず、並べれば数だけあるように見えて、その実バリエーションに乏しいことだ。

結局どれも、閉じた文化圏のなかで充足できてしまうのだ。

しかし何より「まずい」のは、もう一つのほうだ。

どれも「知的」なのである。


べつに、私自身の趣味を「高尚」であるなどと言いたいのではない。

趣味に貴賤はない――法律に抵触しない限り――し、またあらゆる趣味や活動において知性の活用が不可欠であることは百も承知である。

スポーツもタクティクスにおいて十全に知性を発揮せねばなるまい。それは、試合で相手に勝つため、または練習において十分な効果を得るために必要不可欠である。他の趣味にも、そのような「活用」シーンが存在する。

「知的」とは、活動の「タイプ」の話だ。

繰り返しになるが、あらゆる趣味において知的な営みは不可欠だ。

しかし、なんというのだろう。私の趣味には「無心で集中できる作業」の入り込む領域が、とてつもなく狭いように感じるのだ。


医師の彼が「趣味を持て」と言ったのは、ストレス軽減の効果を期待してのことであった。

ストレスの蓄積は知的なパフォーマンス能力を招く。

するともう、私には、私の趣味を行うような気力が湧いてこないのだ。


最近の状況がもたらすストレスは私にとっても大きく、高ストレスの日には、もう趣味でストレス解消なんて気分ではない。

読書は、なんとなく集中できない。

音楽は、聴いていても楽器の音がどうにもうるさくて仕方ない。

演劇や映画――これらについては、そもそも興行のない期間もあった――は、劇場まで足を運ぶのがしんどい。

それに、冒頭で述べた「電車に乗って――」なんてことも、この状況ではどうにも気が引けてしまう。

そんなわけで、そのストレスの波が引くのをただ待つしかない。


状況が状況だから、他の趣味も何らかの煽りを受けたことは間違いない。

スポーツの試合はもちろん、トレーニングも満足にできなかっただろうし、手芸などの教室も開かれなかっただろう。

しかし、所詮はないものねだりだが、思うのだ。

ハードなトレーニングをするとか、ペーパークラフトを作るとか、ピーナッツの殻をひたすらに剥くとか、そういう無心で、集中してできることを趣味にしていれば良かったのに――と。

そうすれば、ストレスの解消に今ほど苦労しなかったのではないか、と。


私は今も趣味が少ない。

それに、趣味を努めて作るのは、なんだか趣味のための趣味みたいで気が引ける。いや、趣味なんてそれでいいのだろうけれど、なんだか演技がかっている気がしてしまう。

心を無に出来るような、そんなものはないものだろうか。

そういえば、大学生の時分から、むしゃくしゃした日は夜中、目的地も決めずひたすらに歩き続けていた。

しかし、果たしてそれは趣味と呼べるんだろうか?

それをしているときは、おおよそ趣味をやっているときとは思えないような、苦虫を噛み潰したような顔をしていると思うのだが。


趣味の話、ストレスの話。

なんだかそれ自体がストレスになりそうな話である。

少しばかりの恥ずかしさを押してでも、趣味を作ってみたほうがいいんだろうか。

いやあ、でもなあ……。

前にも「趣味」をどうするか、なんてことを書いた気がするけれど、結局いつもこの「いやあ、でもなあ……」に返ってきてしまう。

逡巡するまま、もやもやばかりが増え、夜が更けていく。


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