「若者」は、若者文化の証人であり賢者である
若者とは何歳までを指すのだろうか。
自分が既にその枠からはみ出つつあることは承知しているが、しかし会社での私は今なおれっきとした「若者」である。
若さとは相対的なもので、20代前半から60代半ばまでの「大人」のみが揃う「職場」という環境では、若者の基準は少々引き上げられてしまうのだ。
職場において、「若者」は「若者」であるが故に、年長者から飲みに誘われることが多い。
特に独り暮らしだと、その傾向は強くなる。
「お前、ちゃんと飯食ってるか?」という、十年前のヒットソングの歌詞みたいなフレーズが、誘うときの常套句だ。
家庭のある人は誘いづらいとか、「若者」はいっぱい食べたいはずだという発想とかが、そのお誘いの根拠なのだろう。
まあこれは、サラリーマン漫画や職場にまつわるネット記事など、様々なメディアで描かれてきたイメージ通りだ。
だが、意外にも「若者」が「若者」であるが故にこれと同じぐらい振られる話題が存在する。
ユースカルチャーについてである。
私は、この話題に振られるとき、いつもうまく対応できない。
ユースカルチャーについて話したがるのはどういう心理か。
私見だが、年長者はそういった「若い」話題にも詳しい自分を演出しようとしているのだ。
そのカルチャーに必ずしも乗っかる必要はない。
ただ、その話題に置いていかれていないことを示し、誇りたいのである。
そして「若者」は、その証人にうってつけなのだ。
ある日のことだ。
本部長が私の席までやってきた。
「なあ」と話しかけられ、私は、いったい何事だろう? と思いつつも「はい」と応えて身体を向けた。
「お前、タピオカ飲んだことあるか? タピオカミルクティー。流行ってるんだろ? 最近。なあ」
「いえ、ないです」と私は答えた。実際、飲んだことはなかった。
「あれ? お前、若いのに飲んだことないのか!」
本部長は、たいそう驚いたような口調で言い、自身の子供にねだられて、タピオカミルクティーを買って一緒に飲んだときの話を始めた。
そして去り際に彼は、「しかし、お前若者なのにタピオカも飲んだことないのか」と言った。
困るのは、まったくのイエスマンでもいけない、ということだ。
確かに「若者」は証人の役目を担わされる。
しかしそれだけではなく、新しい知識を与える賢者の役割も同時に担わされるのだ。
だから上記のタピオカミルクティーの例で言えば、「〇〇ってチェーン店の名前とかって、お子さんおっしゃっていませんでしたか?」などと、もう少し「深い」情報をさりげなく盛り込むべきだったのだ。
しかし、私のコミュニケーション能力で、そんな芸当ができるはずがなかった。
ましてや、タピオカミルクティーというまったく門外漢である分野で、それができるわけがなかった。
私が当時知っていたタピオカミルクティーについての情報は、その頃実はもう既にそのブームは下火になっているということだった。
巷では、それに代わってバナナジュースが流行り始めていた。
だが、そんなことはまったく不要な情報でしかなかった。
本部長の話の主眼は、彼が思うユースカルチャーの代表格であるタピオカについてであり、ユースカルチャーの動向ではなかったからだ。
だから、新しい知識を授けられない私のせめてもの任務は、彼の話に良い具合の合いの手を入れることだった。
しかし私は、「いやあ、なにも言えないしなあ」などと逡巡し、「そ、そうですかあ」となんとも中途半端な反応を示すばかりだった。
証人と賢者。
タピオカミルクティーの例に限らず、私はいつもこの二つの任務を、適切なバランスで遂行することができない。
乃木坂46のセンターについて、『鬼滅の刃』について、米津玄師について。
あまりに知識がないまま、証人の役目すらまっとうに果たせなかったり、賢者の役目に比重を置きすぎたり――。
「若者」の振る舞いに慣れないまま、私はただ歳を重ねていくのだろうか。
適切な「若者」に、ついぞなれないままに。
【今回の一曲】
内田真礼/youthful beautiful
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